#09
ラーメン屋を出た後は、バス停まで2人で向かう。
味噌ラーメン3杯に続き、追加で注文したおにぎりとたくあんも食べ尽くした水森は、それは大変ご満悦顔だった。
「やっぱり、マンションまで送ろうか?」
何度尋ねても、彼女は首を横に振る。
こんな時間まで付き合わせたのは俺なのに、せめて帰りぐらいは車で送ってあげたかった。その思いに下心は無い。
でも彼女は「大丈夫です」の一点張りだ。
頑なに拒否されてしまえば、従うほか無い。
車内という密室空間で、男と2人きりになる事に抵抗があるのかもしれない。
夜風で彼女の髪がなびく。
ふわりと、甘いコロンの香りがした。
遠くからは、バスのライトが近づいてくる。
最後の悪あがきとばかりに、彼女に一言告げた。
「今度、またご飯食べに行こう」
「………」
「その時は送らせて」
水森は頷かない。
相変わらず無表情だが、どこか不安げな瞳がゆらゆらと揺れている。
そんなに俺は下心があるように見えるのかと内心ショックを受けていた時、彼女の手が急に、バッグの中身を漁り出した。
バスが停留所に到着すると同時に、水森が取り出したものは。
「……え、これ」
あの、付箋だらけのファイル──
じゃない方の、白いファイル。
初めて見るタイプのものだ。
けど、付箋はひとつも貼られていない。
「これ、お家で読んでほしいです」
差し出されて、自然な流れで受け取ってしまった。
「私、字が汚いから。読みづらいところとか、あるかもしれないけど」
「水森、これ何?」
「……キリタニさんにとっては、不快に思う内容かもしれません」
「……え?」
不穏な発言に、思わず眉をしかめた。
「……嫌われちゃうかも、しれないけど」
「え、水森」
目の前で、バスの入口扉が開く。
困惑している俺に背を向けて、水森は逃げるようにバスの中へ乗り込もうとする。
けれど扉が閉まる寸前、振り向き際に彼女は一言だけ、
「今度があれば、次はマンションまで送ってください」
そう言ってくれたから。
「……わかった」
腑に落ちないまま、静かに頷いた。
その場から、バスが静かに走り去っていく。
俺の手には、彼女から託された謎のファイル。
次の約束を取り付けられた……ような、うまくかわされたような、妙なモヤモヤ感だけが胸の中に残った。
・・・
帰宅して風呂を済ませてから、コーヒーを淹れてダイニングテーブルにつく。
ファイルに目を通し始めて1時間、短針は23時を示していた。
水森から手渡されたのは、A4サイズの不透明表紙に、ポケットタイプのクリアファイル。
中に収められている書類には、彼女の手書きで文章が綴られている。
そこには、営業職ならではの"ある問題点"について、こと細かく記されていた。
クセのある字体は、女の子らしい丸文字で。
けれど中身の内容は、可愛さとは程遠いものだった。
『不快に思うかもしれない』
彼女がそう苦言したのも、ファイルの中身を確認した今なら納得できる。確かに会社の人間、特に営業社員には安易に見せられない内容だ。
でも。
「……こんなので嫌うわけ、ないのに」
『営業とマーケの確執について』
『互いの部門に対して、不満を抱いている社員が9割を占める』
『高い成果に繋がらない要因は、情報共有と相互理解の欠如』
『業務内容の違いも確執の影響』
『部門間連携後も、顧客の状況を両者が共有できていない現状』
それは、営業とマーケの在り方に異論を唱える内容だった。
営業とマーケの不仲説はよく聞く話だ。
マーケは市場の状況をいち早く理解し、そのデータをもとに戦略を練り、見込み客を獲得する。
そして営業は、その見込み客にアプローチをして商談を進め、成約に繋げる。
つまり、互いの連携が絶対必須になる。
初心者の俺でもわかる話だ。
なのに、その連携が全く出来ていない企業が多い。
商談が失敗に終われば、営業はマーケに責任転嫁しようとする。成約に繋がる仕事をマーケがしていないと、不平不満を漏らす。
そしてマーケは、営業のアプローチが足りないからだと反論する。
そうやって溝が深まる事態を放置した結果、両者の確執を生んでしまった。
でも、それはあくまでも他社の話だ。
アジュールは比較的、どの部門も連携は取れているように見える。マーケの社員と情報交換をする機会も多いが、相手は好意的だし、壁を感じたことは一度もない。
でも水森は、何かしら感じるところがあるのかもしれない。
でなければ、こんな内情を俺に伝えたりはしないだろう。
『いつか私も、何かデカイことがしたいと思う日がくるかもしれない』
あの言葉は、この問題を示唆しての発言だったのだろうか。
一旦ファイルから目を離して、一息つく。
腕を伸ばして、強張った体を解していく。
肩の力を抜けば、急に瞼が重くなってきた。
仕事終わり、こんな夜更けに活字ばかり眺めていれば、さすがに疲労が溜まってくる。襲い掛かる睡魔を振り払うように、コーヒーを喉へと流し込んだ。
「……郁也?」
不意に呼び掛けられて、手が止まる。
背後を振り向けば、2つ下の弟が顔を覗かせていた。
「まだ起きてたんだ。仕事?」
「……まあ、そんなとこ」
正式には仕事ではないが、どう答えるのが正解なのかもわからず、曖昧な返事で誤魔化した。
「そっか。大変だね」
特に疑う風でもなく、弟はそのままキッチンへと向かう。
冷蔵庫を開ける音が、遠くから聞こえた。
「春樹」
「ん?」
「大学、決めたのか?」
弟の春樹は今年で高3。受験生だ。
医師でもある両親の跡を継ぎたい、医学を学びたいと以前から言っていたが。
ペットボトルを手に戻ってきた春樹は、何故か困ったような笑みを浮かべている。
「……大学、行ってもいいのかなって」
「なんで」
「お金とか」
「なんだ、そっちの方は心配すんな」
弟は俺と違って優秀だ。1を教えれば10を理解できるほどの頭脳を持っている。
器量もよく性格も穏やかで、誰に対しても分け隔てなく接することができる。兄の俺が言うのもアレだが、よく出来た弟だと思ってる。
内向的な部分もあるが、決して短所ではない。春樹の長所は、医学の分野でも十分活かせるはずだ。
金の問題で、夢を頓挫してほしくはなかった。
『お金が理由で諦めたくはありません』
……ああ、水森の言う通りだな。
「医者になりたいんだろ」
「……うん、ありがとう」
「早く寝ろよ」
「うん」
「ついでに、"ソイツ"叩き起こせ」
「え?」
首を傾げた春樹が、ソファーに寝そべっている"奴"の気配に気づき、納得したように頷いた。
3人掛けソファーの上。
よだれを垂らしながら、ぐーすかと惰眠を貪る女の子の姿がある。
俺より2つ年下で、春樹とは同い年。
訳ありな事情で居候しているいとこの頬を、春樹の手がぺちぺち叩いた。
「もか、起きて」
「………む?」
「こんなところで寝たら、風邪ひくよ」
「……むー」
もか、と呼ばれた女の子の眉間に皺が寄る。
小さな手が、必死に春樹を追い払おうとしている。不満そうだ。
意地でも離れんと言わんばかりに、ソファーに顔を押し付けて動こうとしない。
よだれ拭けよ。
「もか、プリンが待ってるよ」
「…………、ふあ、ぷりん!」
春樹の一言で覚醒し、即座に起き上がる。
小学生かお前は。
「あ、起きた。ほら寝るよ」
「プリンは?」
「プリンはないよ」
「へっ?」
「部屋戻るよ」
「……ふえ?」
寝起きで意識の定まらないもかの首根っこを、春樹の手が掴む。
そのままズルズルと引っ張りながら、リビングを出ていった。
もかの扱いが上手くなったな、と。
感心しながら見送った、その直後。
「嘘ついたああぁ!」
悲痛な叫び声が聞こえてきた。
階段でぎゃあぎゃあ喚く声を背に、手元のファイルに視線を落とす。
一通り目は通したし、明日には彼女へ返した方がいいだろう。
そう思う反面。
俺はどうしても、気がかりなことがあった。