#10
翌日の社内は、どこも活気で賑わっていた。
おそらく華金が原因だろう。
今日を耐え抜けば、明日から世間は3連休だ。定時上がりに飲みに行く連中もいるだろうし、連休という解放感が、社員達の原動力になっている。かくいう俺も、同僚から飲みに誘われている身だ。
……水森も、誰かと飲みに行くのかな。
「あの」
「はい?」
「水森さんから借りていた資料の件で話があるんですが。本人、いるかな」
「………え?」
3階のオフィスを見渡しても水森らしき姿はなく、近くにいたマーケ社員に声を掛けた。
けれど彼女達は何故か、疑わしげな視線を俺に……、
いや、俺の背後へと向けていた。
「水森さんなら、すぐそこに、」
「え?」
「──ここにいます」
「うわっ」
背後から聞こえてきた声に驚いて振り向けば、すぐ真後ろに水森が立っていた。
気配に全く気付いていなかった俺の慌てように、周りからは小さな笑い声が漏れている。
一方の水森は、やっぱり今日も無表情で。
「……びっくりした」
「ごめんなさい。私、存在感が薄くて」
「………」
そんな返しを受けたのは初めてだ。
「あのさ、今忙しい? 昨日の件で話があったんだけど」
「……大丈夫ですよ」
トーンを落とした水森の声は弱々しい。
緊張で強張っているのか、表情も固い。
そんな彼女に内心戸惑いつつ、2人でその場を後にした。
休憩スペースに足を運び、自動販売機で缶コーヒーを2本購入する。
彼女に差し出せば、目を丸くして俺を見返してきた。
「いいんですか?」
「どうぞ。1本じゃ、足りないかもしれないけど」
「……足ります。足らせてみせます。大丈夫です」
「……」
……こんなに信用ならない決意表明を聞かされたのも初めてだ。
壁を背に寄りかかり、プルタブを開ける。
プシ、と耳に心地いい音が響いた。
隣に並んだ水森が、いただきます、と謝礼を述べてから口につける。
その様を見届けてから、俺もコーヒーを飲み込んだ。
周囲に人気はほとんど無い。
たまに社員が通り過ぎるだけで、人の賑わいは遥か遠く。
どことなく、ぎこちない空気が流れている。
「ファイルのことなんだけど」
沈黙に耐えられず、口を開く。
ぴく、と水森の肩が震えた。
「ごめん、実は家に置き忘れてきたんだ。本当は今日、返すつもりだったんだけど」
「え、そうだったんですか」
「来週でも大丈夫? すぐ必要なら、家に行って取ってくるけど」
「あ、いえ。大丈夫です」
慌てて彼女は首を振る。
でもその表情は、まだ強張っていて。
「……あのファイルさ」
「……はい」
「すごかった。俺は、ていうか誰も、あんなこと調べてもいないし、考えてすらいないと思うから。水森の着眼点にびっくりした。読んでて興味深かったよ」
「………」
「でも、今は俺以外の社員には見せない方がいいかもしれない」
それは忠告というより、彼女の身を案じて出た言葉だ。
この会社は基本的に、大卒者のみを採用している。高卒者を採用したのは昨年、つまり俺達が初めてらしい。確か5人いたはずだ。
ちなみに今年の採用者はいない。
つまり俺達に、まだ後輩はいない。
周りは大卒の先輩だけだ。
一番立場が弱い下の人間が、上の人間に意見を主張するのは、いささかリスクを伴う。
水森もそれをわかっていたから、上司でも先輩でもなく、同期の俺にファイルを見せてくれたのかもしれない。
「……気、悪くしましたか?」
「いや? 俺は全然」
「……よかった」
水森は安心したように胸を撫で下ろした。
もし、数年後にあのファイルを見ていたら、何か思うことはあったかもしれない。
でも今の俺はまだ、自分のことで精一杯な状況だ。営業とマーケの関係性なんて、考える余裕も無い。
何も染まっていない時期にあの問題を提示されても、僅かな違和感を覚えるだけで、不快感を抱いたりはしない。
それよりも。
「水森、悩んでる?」
「え?」
「あのファイルの中身を見たら、何か抱えてんのかなって思ったんだけど」
水森がどうして、営業とマーケの問題を調べているのか。
俺にファイルを見せて、どうしたいのか。
それが一番気がかりだった。
たった一人であの情報をかき集めていたのは、何か理由があるはずだ。
問い掛ければ、彼女は躊躇いがちに口を開いた。
「……たまに、ですが」
「うん」
「営業のやり方に、不信感を抱く時があります」
「……え」
その発言に、多少なりとも驚く。
俺自身はマーケに不信を抱くようなことは一度も無かったし、気にすることもなかった。
けれど彼女は、営業側に不信を買っている、と言う。
その発言の意味するところは。
「問題視する程のものではないんです。ただ、気になる事があって」
「うん」
「引き継いだ筈の情報のいくつかが『要らないもの』として認識されていたり、引き継いだ後の顧客状況が、マーケに伝わってこない時があって」
「……え、そんな事ってあるのか?」
にわかには信じ難い内容だった。
マーケの役割は『売れる仕組み』を考える事だ。商品開発に先立ち、情報収集に市場調査、顧客データの分析や解析など、社内ブレーンとして多様な役割を果たす機会が多い。
だからマーケは、営業に情報を引き継いだ後であっても、顧客の状況を把握しておかなければならない。その為には常日頃から、営業社員との情報交換が必要になる。
ネット媒体やSNSが普及し、時代がデジタルマーケティング化している昨今、営業よりマーケターを重要視する企業も増えている。故に、マーケティング情報は膨大な量になった。
それらの情報量を各部門で共有・管理できなければ、高い成果なんて見込めない。
「営業は短期間での成果が求められるので、質のいい情報以外は削りたい、という気持ちはわからなくはないです」
「……」
「でも私達は、情報を武器にマーケティング戦略をしています。それを無いものにされるのは……やっぱり、少し複雑です」
「……だよな」
営業とマーケは、業務内容も求められるものも全然違う。
けれど、目指すべき目的は同じはずだ。
"顧客に自社商品やサービスを伝え、成約に繋げること"
その為に、営業とマーケは存在している。
どちらも必須で、どちらかが欠けることはあってはならない。
でも実際は、互いの業務を理解し合おうとしなかったから確執が生まれた。
「情報共有と、相互理解か」
「そういう環境づくりが必要だって、個人的には思っているんですが……その、」
彼女らしくない、歯切れの悪い言い方だった。
待てども、水森はその先を伝えようとはしない。喉まで込み上げた言葉を、無理やり抑えてるようにも見える。
そこで、やっと気付いた。
水森が今、何を言いたかったのか。
あのファイルを俺に見せて、何を伝えたかったのか。
今までの話の流れから推測しても、その答えはひとつしかなかった。
「……環境づくりか。難しいよな」
「……はい」
「社員の意識を変えるなんて、"ひとりで"出来るものじゃないし」
「……」
「かと言って後輩の俺らが、変に出しゃばる事もできないしな」
「……でも、何かキッカケがあれば」
キッカケ。
社員の意識を変えざるを得ない、何か。
「だったら、
俺と組もう、水森」
はっきりと告げれば、彼女の纏う空気が変わる。俺を見上げた水森の目が、驚きで見開いた。
けれど瞳の奥にある光は、確かに期待感で満ち溢れていた。