#04
今日だけで何度、時間を確認したのか。
仕事の合間に腕時計を見て、手が空いていればスマホで確認する始末。周りから「落ち着きないな」と言われるくらいだから相当だ。自覚はしてる。
定時前にあらかた業務を終わらせて、スマホでグルメアプリを立ち上げる。現在地とキーワードを入力して、近場で評判の良い店をチェックしていく。
彼女とは知り合って1日、一緒に食事へ行くのも、当たり前だが今日が初めてだ。小洒落た店よりも親しみ慣れた通りにある店の方が、互いに気兼ねなく過ごせていいかと判断した。
そこまで考えて、指が止まる。
自嘲気味な笑みが漏れた。
「……笑えるな」
何がっついてんだ、自分でもそう思う。
昨日まで、平凡な毎日がつまらないとボヤいていたくせに。
それは久々に味わう、高揚感だった。
定時を迎えると同時にPCの電源を落とす。
すぐさま鞄とコートを抱えて、飲みに誘われる前にオフィスを出た。
エレベーター前には既に人だかりが出来ていて、それらを無視して階段がある通路へ向かう。今は時間よりも、人気が少ない道を優先したかったからだ。
定時後のエレベーターは、人の目が多い。
誰かに呼び止められる可能性も高い。
挙げ句、長話に付き合わされて待ち合わせ時間に遅れる、なんて事になったら最悪だ。
それだけは絶対に、避けなければならなかった。
トントンと、リズミカルに階段を降りていく。
4階から一気に降りるのもなかなか大変なもので、徐々に息が上がってくる。
だが定時上がり、疲労の溜まった体に鞭打って階段を使う奴なんていない。途中で人とすれ違うことはなかった。
最後の段を下り、正面玄関に目を向ける。
そこには既に、彼女──水森の姿があった。
ショルダーバッグを肩に掛け、壁に背を向けてスマホをいじっている。
待たせてしまったかと急いで駆け寄れば、俺の気配に気付いた彼女が顔を上げた。
すぐさまポケットにスマホを仕舞い、お互いに向かい合う。
「キリタニさん。お疲れ様です」
「お疲れ様。待たせたみたいでごめん」
「ちょっとフライングしちゃいました」
「何分前から来てた?」
「17時の5分前くらいです」
「確かにフライングだ」
「楽しみで。テンションあげ過ぎました」
……顔、無表情だけどな。
でも彼女の言葉が嘘じゃないのは、真っ直ぐに向けられた瞳と、波長の変わらない声音でわかる。
楽しみに、してくれてたんだ。
そんな一言に浮ついてしまう自分がいる。
「とりあえず、出ようか」
「そうですね」
エントランスを出れば、強い季節風が俺達の間を吹き付けた。
春とはいえ、夕方の空気はまだ冷える。
腕に抱えたままの上着を急いで羽織り、夕暮れに染まる歩道を、2人で並んで歩いていく。
俺が上着を着終えるまで、2人分の鞄を彼女がさりげなく持っていてくれていて、そういう気遣いがすぐ出来るところが女の子なんだな……と、改めて実感させられた。
周りを見渡しても同僚の姿はなくて安堵する。
声を掛けられて連れが増える、なんて面倒な展開だけは避けたかったからだ。
同時に、嫌だとも思った。
「あ、水森さん」
「水森でいいですよ」
「じゃあ、水森。どこか行きたい店ある? 一応、このあたりの店いくつかリストアップしてきたけど」
「そうなんですか。じゃあ、そのお店は今度行きませんか?」
「いいけど……」
……今度。
今度、また一緒に行こうと思ってくれてるんだ。
そんなさりげない主張に胸がざわつく。
なんだこれ。中学生かよ。
今まで女に無関心だった自分の前に現れた、ちょっと気になる女の子。
そんな存在が出来た事に、俺もテンションが上がっているのかもしれない。
「キリタニさんに、ご紹介したいお店があるんです」
「俺に?」
「私の行きつけのお店です」
「そうなんだ。このあたり?」
「はい。もう着きますよ」
そう言って彼女が紹介してくれたのは、会社から然程離れていない場所にあった。
狭い路地の奥に佇んでいる、こじんまりとした小さな店。古ぼけたランプと小さなキャンドルが、訪れる人を温かく出迎えてくれる。
白く塗装された扉は、手作り製に見えた。
「あ、ここ知ってる」
「ほんとですか?」
「うん。入ったことは無いけど、外観の雰囲気が良さげだから、前から気になってたんだ」
そう。よく通る道だから覚えていた。
遠目からだと何の店なのかがわからなくて、いつも見かけるだけだったけど。
「普通の飲食店だけど、ご飯がとっても美味しいんです」
「へえ……」
「ちょっとお値段が高いけど。でも、本当にめちゃめちゃ美味しいのです。お勧めです。太鼓判押します」
「そんなに」
「そんなに、です。私、会社帰りはよく此処に来るんです」
1人で来る事が多いと、水森は言った。
友人や会社の人間と、一緒に立ち寄る事はないらしい。
「こんな素敵なお店は誰にも教えたくありません。私が全部独り占めします」
「軽く営業妨害だそれ。俺に教えてもいいの?」
「キリタニさんと一緒なら、楽しくご飯を食べられると思ったから」
そう言って、彼女は扉の取っ手に手を伸ばした。
普通に会話をしているようでも、内心はずっと心が躍っている。どうにか平然を装うことで精一杯な俺は、少しばかり情けなくも感じるけれど。
でも、それは仕方ないとも思う。
それはそうだろう、自らが大絶賛するほどの店を、彼女は俺に紹介してくれたんだ。しかも、誰にも教えたくないと豪語する場所に、俺を連れてきてくれたんだ。
こんな、まるで俺が特別みたいな扱いをされて、嬉しくないわけが無い。
ついニヤけそうになる表情を引き締めて、水森の後に続く。
扉が開くと同時に、チリンと軽やかな鈴の音が鳴った。