#05
美味しいご飯を頂くために、そして料理を教えてもらう為に、卯月さんの部屋を出入りするようになってから、もうすぐ半年が経つ。
「おかえり」
「……おう」
「なんですかその返事」
ソファーに寝そべりながら、仕事帰りの彼を出迎える。上目遣いで見上げれば、頭をくしゃくしゃされた。
甘やかされてる気分になって嬉しくなる。
2ヶ月前、「勝手に入ってもいいから」と言われて渡されたのは、部屋の合鍵。
彼女でもないのにいいのかな? と思いつつ受け取って以来、こうして彼の帰りを待つ機会が増えた。
その後は一緒に夕飯を作って、一緒に食べる。
そして私が帰るパターン。
私が勝手に部屋に入っても、卯月さんは怒らない。
相変わらずぶっきらぼうで、私に対する態度も、出会った頃から何も変わっていない。
ついでに言えば、手を出してくる様子もない。
半年経っても、私は卯月さんに抱かれていないままだ。
「奈々、なにか食べたいものある?」
いつからか、私を下の名前で呼ぶようになった卯月さんが、シャツの袖を捲りながら尋ねてきた。
「卯月さんの作ったものなら、何でも食べるよ」
そう伝えれば、何故かじっと見つめられた。
なんとなく、不機嫌そうに見える。
でも何故かはわからなくて、私は首を傾げた。
「……素直すぎるのも毒だな」
「え?」
「何でもない」
意味のわからないことを呟いて、卯月さんはそのまま、キッチンへ行ってしまった。
取り残された私の頭に、疑問符が浮かぶ。
なんだろね。変な卯月さん。
名前で読んでくれるようになった卯月さんとは逆に、私はいまだに、卯月さん呼びのまま。
「下の名前で呼んでいい」って言われた事もあるけど、4つも年上の社会人、なにより彼氏でもなんでもない人を、気軽に名前で呼ぶ勇気はない。
それになんか、照れくさい。
男友達は普通に名前で呼べるくせに。
卯月さんが相手だと、やっぱり調子が狂う。
私はといえば、大学とバイトを行き来して、帰りに卯月さんの部屋に寄ったりして、毎日気ままに過ごしている。
たまにタケくん達と飲みに行くこともあるけれど、飲みだけで終わることが多い。
セフレ達と遊ぶ回数はかなり減って、その分、卯月さんと会う回数が増えた。
それに、あれ以来セックスもしていない。
卯月さんに「抱きたい」と言わせる日までセックスはしない、ビッチの意地とプライドに懸けてそう決めていた。
その決断に、特に意味はない。
ただ今は、卯月さん以外の男の人にあまり興味が向かないから、そんな自制をしてしまったのかもしれない。
禁欲生活なんて自分には無理だ、って思っていたけれど、確固たる目標を掲げた時、人は越えられない壁も乗り越えられてしまうらしい。
セックス無しで半年間も過ごせるなんて。
以前の私なら、絶対に考えられないことだった。
と言っても、性欲がなくなった訳じゃない。
卯月さんに抱いてもらえたら、またみんなといっぱい遊ぶつもりだもん。
「どっか行くか」
その一言に、私は顔を上げた。
テーブルの上には、酸味の効いたチキントマト煮。勿論、作ったのは卯月さん。
みりんや醤油、ソースなどを色々混ぜ合わて作ったお陰で、深いコクが出て美味しく仕上がっている。ご飯がよく進む味。
最近はこのトマト煮が、私のお気に入り。
「どっかって、どこ?」
「どこでもいいけど。どこ行きたい?」
卯月さんの会話は、いつも淡々としてる。
このお誘いの意図も、私にはサッパリだ。
何のつもりでの、一緒のお出掛けなんだろう。食材探し? グルメ巡りみたいなものだろうか?
どう答えていいのかわからず、うんうんと唸る。
「奈々」
「うん?」
「行きたいところ、ないのか」
問い詰めるように尋ねられて、ますます困惑する。
行きたいところ。
私の行きたいところ?
ラブホとか?
「ラブホは却下な」
「どうして心の声が読めるの」
「顔見たらわかる」
いつしか交わした会話をもう一度繰り返して、卯月さんは笑った。
最近は、よく笑ってくれる。
基本的にぶっきらぼうだけど、前みたいな皮肉っぽい笑い方じゃない、自然な笑い方。
「卯月さんは、どこか行きたいところある?」
考えても答えが出てこないので、逆に問い返してみる。
「………特にない」
「えー」
それじゃあ、この話は一向に進まないよ。
「俺ら、いっつも会うのは此処だろ」
「ここ?」
「俺の部屋」
「うん」
「たまには外に出てみるのもいいだろ」
「おお」
なるほど。そうだったんだ。
「街ぶらつきたい」
私がそう言えば、卯月さんはつまらなさそうな顔をした。
希望を言ったのに、なぜだ。
「そんなんでいいのかよ」
「うん」
「もっと、他になんかあるだろ」
でも、行きたいところなんてないし。
「他って?」
「遊園地とか」
「ああいう煩いところ、わたし苦手」
彼の提案を拒む。
「水族館とか」
「魚見ても何が楽しいのかわかんない」
「プラネタリウムとか」
「星見ても何が面白いのかわかんない」
「……映画館とか」
「暗がりだから、いかがわしい事したくなる」
「………動物園とか」
「臭い」
「………」
ことごとく拒絶する私に、卯月さんはとうとう音を上げた。
近くに置いてあった雑誌を手に取り、くるくる丸めて私の頭をぽか、と殴る。
「なにすんの」
「人の提案したプランをことごとく潰しやがって」
「そんな事言われても……あ、」
「なんだよ」
「行きたいところ、あった」
そうだ。
そろそろ、あの場所に行きたいと思っていたんだった。
「どこだ」
「猫カフェ」
「………」
僅かに晴れやかな表情へと変貌した卯月さんの顔が、一瞬にして真顔に戻る。
「……くまごろうを裏切る気か」
「そういう訳じゃないけど、たまには猫ちゃんで癒されたいの」
犬を飼ってるからって、みんなが犬派だと思わないでほしい。
私は猫も大好きだ。
「………まあ、いいけど」
「卯月さん、一緒に来るの?」
「嫌なのかよ」
「いやじゃないけど」
猫カフェでにゃんこと戯れている卯月さんの構図が、どうにも想像しづらくて。
「その後は?」
「そのあと?」
「どっか食べに行くか?」
やっぱり一緒にお出掛けするみたい。
まるでデートみたいだ。
コンビニに2人で行くことはあるけれど、ちゃんとしたお出掛けって初めてだなあと思いつつ、私は頷いた。
「いいよ」
「どこか行きたい店あるか?」
「どこでもいいよ」
「欲ないのな」
「性欲はあるよ」
「近場がいいか。お勧めの店なんかあったかな」
スルーされちゃった。
「卯月さんと一緒ならどこにいても楽しいから、卯月さんが決めていいよ」
彼女でもない私に、卯月さんがそこまでしてくれる理由が私にはわからない。
だから、特別なことなんて何もしてくれなくていい。ここで一緒にご飯を作って、一緒に食べてくれるだけで十分楽しいもん。
だから、そう告げた。
心なしか、卯月さんの頬がちょっと赤く見える。
でも、今回は殴ってないし。
私、そんなに恥ずかしいこと言ったかな。
「卯月さん?」
「………、アホ」
小声で悪態をついて、卯月さんは目を細めて笑った。