#20
首元に、早坂の両腕が巻き付く。
そのままぎゅと抱き締められたら、身動きも取れなくなる。
ダウンジャケットに阻まれて体温は伝わらないのに、後頭部に添えられた手は、酷く熱い。
早坂の吐息を、すぐ近くで感じる。
「早坂、なに……」
「………」
「っ……や、離して」
「……離すかよ」
殊更強く抱き締められて、発しようとした言葉を失う。
心拍数はどんどん上がって、私の胸を熱くさせる。
その最後の一言にどれ程の想いが、どんな感情が込められているのか、私はまだ知らない。
今までだってこんな風に、くっついたりすることは何度かあった。
酒に酔った勢いだったり、悪ふざけだったり状況は様々だけど、それらは全部、私から仕掛けていた事だ。
早坂の方から抱き締めてくれた事なんて、この4年間で一度だってない。今が初めてだ。
やましい気持ちや軽いノリで、抱き締めている訳じゃないことくらいわかる。だから、安易に押し返す事ができない。
思わせ振りな態度が良くないって自覚してるなら、今ここで突き放して、断らなきゃ駄目なのに。
「……今まで通りの関係じゃ駄目なの?」
「………無理だろ、もう」
どく、と心臓が大きく跳ねる。
友人関係を保ちたい私と、友人という一線を越えたい早坂の気持ちがすれ違う。
ずっと変わらないと信じてきた関係に、亀裂が走る。築き上げてきた友情に、綻びが生じていく。
「……っ、無理、じゃないよ。だって私達、今まで普通にやってきたじゃん」
「今までは、な。これから普通に接するとか無理じゃね」
その冷たい言い草が、心に深く突き刺さる。
「……なんなの」
「………」
「何でそういうこと言うの? まさか酔って、」
「酔ってねえよ」
「急にそんなこと言われても困るよ!」
「急じゃない。ずっと前から好きだった」
「……!」
頬に、一気に熱が溜まる。
身体中の血が沸騰してるんじゃないかと錯覚するくらい、全身が熱い。
その言葉を待っていた訳じゃない、むしろ聞きたくないとすら思っていたのに、いざ言われると嬉しい、なんて感情が湧くのも嘘じゃない。
自分の気持ちが全然わからない。
心の整理ができない。
結局私は、早坂とどうなりたいんだろう。
異性として惹かれてる気持ちはあっても、それが恋愛だという自覚はない。交際したいという欲もない。
でもずっと一緒にいたいし、早坂が他の子とくっつくのは、なんか嫌だ。
早坂を恋愛対象として見ているのか、ただ依存しているだけなのか。キスされて、一時的に舞い上がっているだけなのかもしれない。
今は青木さんを優先しなきゃいけない思考があるから、何とか自分の気持ちにセーブができているけれど、じゃあ青木さんの事が解決したら、私はどうするの? ちょっと好意を寄せたからって、早坂と付き合うつもりなの?
また、青木さんの二の舞になったりしないの?
……ああ、一番の不安要素はこれだ。
友人としての早坂は信用できるけど、私はきっと、男としての早坂は信用できていないんだ。
「……早坂は、怖くないの?」
「……何が?」
「告白したら、仲が気まずくなるとか今までみたいに話せなくなるとか、考えなかったの?」
「それは、考えたよ。でも、『じゃあ告んのやめよ』とは考えなかったけど」
「……なんで?」
普通はそこで、立ち止まったりするもんじゃないのか。現に私がそうだ。
だって怖いじゃん。友情から男女の関係になった途端、気まずくなるのも嫌だし話せなくなるのも怖い。
だったら今の、安定した関係を続けた方がいいって、そう思うのは普通じゃないの?
「……逆に聞きたいんだけど。なんで仲が悪くなる前提で話すんだよ」
「……え?」
私を腕の中に閉じ込めたまま、早坂はゆっくりと言葉を紡いでいく。
「関係が変わったとしても、仲まで壊れる訳じゃない。今まで通りだし、俺も、態度とか接し方を変えるつもりもない」
「……え、だって今、普通に接するとか無理って」
言ったよね?
体を離して、恐る恐る顔を見上げる。真意を確かめるように、早坂の瞳を見つめ返した。
「……ああ、悪い。言葉足らずだった。多分、俺ら今、話が微妙に噛み合ってないわ」
「え、え?」
なんだか、変な方向に話が転がってきた。
訳がわからないと眉を寄せる私を見て、早坂がふと、表情を緩めた。
そのお陰で、張り詰めていた空気が少しだけ和んた気がする。いつもの空気感に、ほっとしている自分がいる。
でも、頭の中は相変わらず混乱中だ。
話が噛み合っていないって、どういうことだろう。
「……それより、そろそろ部屋ん中入れて。寒い」
避難めいた言葉に、私は顔をしかめる。
そもそも部屋の中で話しよう、って決めた直後に抱き締めてきたのは、早坂の方なのに。早坂が今寒い思いをしているのは、私のせいじゃないと思う。
そんな主張を口に出さずとも、早坂は当に見抜いていたようだ。「悪かったって」なんて、笑いながら平然と言うんだから。
けど、その軽い口調が逆に、重かった私の心を掬い上げてくれた。
きっと、早坂は全部わかってる。
私が青木さんのことを引きずっている事も、そのせいで恋愛にも異性にも臆病になっている事も、早坂とは男女の関係になりたくない理由も。告白すれば、私が戸惑うことも困らせるだろう事も、全部。
全部わかった上で、好きと言ってくれた。
衝動的に告げた告白なんかじゃない。ずっと抱いていた想いを、今日になって打ち明けてくれたその理由を、私は聞かなきゃいけないし知りたいとも思った。早坂と今後どう向き合うのかは、それから判断しても遅くはないのだと思う。
そんな風に前向きにさせてくれたのは、私の中にある一番の不安要素を、早坂が全部わかってくれた上で否定してくれたのも大きかった。
「……ほんとに?」
「ん?」
「私達、変わらないでいられる?」
「全く変わらない、事はないだろうけど。少なくとも、七瀬が不安がってるような事にはならないから安心していいよ」
堂々と言ってのける、その発言の根拠は何なのか、一体その自信はどこから来るのか。そんなものを問いかけても、きっと明確な答えは得られない。
ただ、無条件に相手を信じられるからこそ導き出せる答えがある。私にとってその相手が、早坂なだけで。
彼の想いを知ってしまった以上、……私自身も心が揺れ動いてる以上、もう早坂とは、友達とか親友と呼べる関係には戻れないんだろうと理解してる。
それでも、関係が変わっても変わらないものがあるなら、ここから新たな関係を築いていける。
そう信じたい。
「俺、七瀬に言いたいことたくさんあるんだ」
「……私も聞きたいこと、いっぱいできたよ」
自然と笑みが浮かぶ。
雲の切れ間から光が射すように、迷いの晴れた穏やかな感情が広がっていく。
不安事が全部払拭された訳じゃないし、早坂に抱く感情が、恋愛と呼べるものなのかもわからない。
この宙ぶらりんな想いがどう変わっていくのか、今は判断もつかない。
「あの、今日返事した方がいい?」
告白の、とは照れくさくて言えなかった。
「いーよ。しなくても」
「いいの?」
「いい」
「でも、」
「頼む」
ぱふ、と早坂の手のひらが、私の唇を覆う。
その先を言わせまいと、強制的に塞がれた手はいまだに熱を持っていた。
「頼むから、まだ言わないで。まだこれからだから。これから好きになってもらえるように、頑張るから」
まるで中学生のような拙い主張だった。
格好つける訳でもなく、真っ直ぐにぶつけられるその想いに、私の心が絆されていく。
必死とも思えるその告白に、愛しさが込み上げてくる。
「……頑張るの?」
「頑張る」
「えー可愛い」
「やめろ。可愛くねーから」
私が茶化せば、早坂も笑う。
そこに気まずさや、すれ違いなんて言葉は存在しない。
いつも通りの私達がいて、昨日までの私達とは違う関係が存在してる。
早く、早坂の口からたくさん聞きたいと思った。
話が噛み合っていないと言われた理由も、いつから私を想ってくれていたのか。私はまだ、何も知らないんだ。
早坂のことだから、ちょっと気まずそうにしながら全部教えてくれるんだろう。
そんな姿を想像して、嬉しくて顔がニヤけてしまった私は、やっぱり、早坂を好きになってしまったのかもしれなかった。