#19
男女の友情は成り立つ。
私はそう思っていた。
それはつまり、"男女の友情が恋愛に発展するなんて考えられない"という事を指している。
私は今まで、早坂を異性として見たことが一度もない。青木さんがいたから他の男に興味がなかったし、何より、親友同然な早坂と恋愛フラグが立つような展開が想像できなかったからだ。
同僚以上の関係になる筈がないと、信じて疑っていなかった。だから異性や恋愛なんてものとは切り離して、この関係を保ってこられたんだ。
恋人でもない男に寄り添うのも、腕を組むのも、酒に酔って絡むのも、そして部屋に泊められるのも。早坂が、私を異性として見ることはないだろうって信じていたから出来たこと。逆も然り。
でも、結局そんな関係も諸刃の剣だったのだと思い知る。
過呼吸を鎮める為だけに与えられたキスに、特別な意味なんてないってわかっていたのに意識した。
誰よりも一番心許せる存在だと、気づかされた時に胸が疼いた。
実は気になってる女性がいると知った時、振られたような気分になってショックを受けた。
恋人でもないくせに、私の知らない誰かが早坂の一番の存在になっていたと勘違いして、一人で勝手に傷ついてしまった。私が一番早坂に近いと信じきっていたからだ。
意図しない形で早坂の想いを知ってしまったとはいえ、青木さんとの事が解決していない以上、早坂の気持ちに応えるわけにはいかない。
そう思っているけれど、それはあくまでも、体面的な話。
私の気持ちはもう、昨日からずっと揺れ動いている。かなえちゃんの話を聞いて、胸の鼓動の高鳴りが治まらない。
早坂と付き合いたいとか、今の関係を変えたいという気持ちは正直ない。
まだ、そこまで深く考えられない。
それでも惹かれてしまう想いを、止められそうもない。
こんなに曖昧で中途半端な状態のまま、早坂の想いに応えるわけにはいかない。
それにやっぱり、青木さんのことが気にかかる。
彼との関係が終わっていないのに、他の男に目を向けてしまうのは抵抗がある。自分がふしだらな女に見えて、気分が悪くなるから。
だから、早坂の言う「話したいこと」が、あのスマホの会話通りの内容なら……私は、彼からの告白を断らなきゃいけない。
「ただいま」
解錠する音と同時に玄関のドアが開く。早坂の声が聞こえてきて、肩がビクッと小さく跳ねた。手早くIHの電源を切って、玄関先へと向かう。
脚が、心が鉛のように重い。告白されたら断る、そう結論づけたとはいえ、早坂を傷つけることがわかっているから胸が痛い。
返事を保留にしてもらうことも考えたけど、早坂とどうこうなりたいという意思が自分の中に無い以上、期待感を持たせるような態度を取るのは失礼だ。応援してくれているかなえちゃんにも。
男女の関係は本当に難しい。一度仲違いを起こせば、修復はより難しくなる。すれ違いが続けば、築き上げてきた信頼関係も崩れ落ちていく。私と青木さんが、そうだったように。
たとえ口喧嘩をしても壊れなかった早坂との関係だって、恋愛を挟めば破綻する可能性があるんだ。
それに早坂には、私よりもっと相応しい人がいる、そう思う気持ちも依然として残っている。
私が告白を断れば、早坂も諦めがついて次の恋に進んでいけるかもしれない。
なら、私達は同期のままがいい。
このまま友人関係を保つことが、お互いの為にも一番いい選択のはずだ。
……本当に、それでいいの。私。
傷つけるのが嫌だから、傷つくのが怖いから、逃げてるだけなんじゃないの?
早坂に惹かれている気持ちに嘘はつけない。自覚してる。
でも、今の私は男に対して臆病になっている。恋愛は綺麗なものじゃないと、身をもって知ってしまったから。
キラキラしていた筈の私の恋愛は、実は全然、キラキラなんかしていなかった。生々しくてドロドロしていて、汚い感情が複雑に絡み合っていた。
不倫なんて最低な行為をしていた罪悪感と、所詮『恋人扱い』でしかなかった虚しさと、ずっと裏切られていた事に対する怒りが消えない限り、私はきっとこの先へは進めない。
こんな状態で早坂と向き合っても、相手の気持ちに疑心暗鬼になってしまう。
だから、友人という一線を越えてしまうことが怖い。
友人は、友人のままでいい。
恋愛に発展させてしまったら、この関係に亀裂が走る。そんな予感がする。
早坂とそんな風に拗れるのは、嫌なんだよ。
「お、おかえりー!」
平然を装いつつ、帰宅した早坂を出迎える。
若干声が裏返ってしまったのは致し方ないと、無理矢理自分を納得させた。
大袈裟なほど明るく振る舞う私を見て、早坂がふと、動きを止める。
真っ直ぐな瞳が私を捉えて、その真摯な眼差しに息が詰まる。
「……な、なに?」
「……いや。帰ってきた時に、『お帰り』って言われるの、実家から出て久々だったから。いいなって思っただけ」
そんな一言に胸が高鳴る。
多分、その言葉自体に深い意味はなくて、心に思ったことを早坂は口にしただけなんだろうけど、私の心はいとも簡単に浮上してしまう。
私の姿を見た早坂が、安堵したような顔つきに変わった気がして、その表情の変化を自分の都合のいいように捉えてしまう。私が部屋にいてくれたことが嬉しかったのかな、なんて思ってしまう。
それだけ、早坂が特別な存在になりつつある証なんだと思い知らされた。
そんな早坂の頭上には、こんもりと雪が積もっている。上着と頭に付着した雪んこ様を、手で払って落とし始めた。
もう片方の手にはレジ袋。
帰ってくる前に、コンビニに寄ったみたいだ。
「なんかいい匂いする」
顔を上げた早坂が、すん、と鼻を鳴らした。
「夕飯作ってたもん」
「マジで? 俺、弁当買ってきたのに」
「え」
ほら、とレジ袋を差し出され、素直に受け取る。
中身を覗けば、コンビニの店内厨房で作られているお弁当が2つ入っていた。
ラベルには「親子丼」の文字が見える。
「え、ちょっと待って。わたし今、親子丼作ってたんだけど」
「おい被せんなよ」
「私のせいじゃないから!」
こればかりは偶然だと訴えつつも、袋の中身から私は視線を外せない。
早坂と目が合うのが怖くて、無意識のうちに逸らしてしまうその癖を、奴が見逃す筈がなくて。
「……どうした」
「へ?」
「なんかあった?」
「……なんで?」
「なんか、変。態度とか」
「別に、普通だよ?」
「七瀬は嘘つく時、視線逸らして言うからすぐわかる」
「………」
ぐっと言葉が詰まる。
早々に見抜かれてしまえば、何も言い返すことができなくなる。
早坂とはそこそこ付き合いが長い訳で、癖まで見抜かれている相手に対して嘘を貫き通すのは分が悪い。そして察しのいいこの男は、私が黙りこんだ理由もすぐに勘づいたようだった。
「……鈴原に何か言われた?」
嘘がわかりやすいと言われた手前、更に嘘を重ねることなんてできない。
早坂の言葉に、控えめにコクンと頷いた。
「……直球で聞くけど、どのへんまで?」
「……ほぼほぼ全部、ですかね」
「あの馬鹿……」
ぽつりと、早坂らしくない暴言が耳に届く。
かなえちゃんにLINEして、後でチクってやろうと心に決めた私の前で、早坂は大袈裟にため息をついた。
眉間に皺を寄せて、盛大に頭を抱えている。
他人の口から想いが伝わってしまった事に、早坂の中では不満があるのかもしれない。
「……七瀬、そこの靴べら取って」
「……へ? ああ、うん」
その言葉に我に返る。指を差された方に視線を向ければ、壁掛けフックにひとつ、べっ甲の靴べらが引っ掛けられていた。
私達はいまだに、玄関で立ち往生したまま。こんな話をするには場所が悪い。
早坂も体が冷えているだろうし、部屋の中で話をしようという結論に落ち着いた。
受け取ったお弁当を一旦床に置いて、靴べらに手を伸ばす。
差し出せば、早坂の手が掴んだのは靴べらではなく、私の手首。
そのまま勢いよく引っ張られ、よろけた身体は一瞬で、早坂の胸に飛び込んでいた。