#27
その後の事は、正直言うとあまり記憶に残っていない。
というか必死だった。俺も、水森も。
俺は別にこういう経験が初めてではないけれど、だからって多いわけでもない。
対して水森は初めてなわけで、そんな彼女に気を遣うことでいっぱいいっぱいだった。
怖がらせたくないし、痛がらせたくもない。
そんな思いで思考は埋め尽くされていた。
それでも事が進めば次第に身体は慣れるもので、押し寄せてくる快楽に溺れかけそうになるのを、なけなしの理性をかき集めて耐え抜く。
お互いに経験不足が相まって、色々ちぐはぐだし、甘ったるい雰囲気とも言い難い。
それでも水森に触れると幸福感で満たされる。
それは相手も同じだったようで、下腹部に襲う圧迫感に表情を歪ませながらも、「なんか楽しい」なんて言ってきた。
色々と台無しな発言だけど、それが妙に水森らしい気がして、笑えた。
情事の後、彼女の額に浮かぶ汗を拭き取っていた最中、水森が静かに口を開いた。
「……キリタニさん」
「ん?」
「……ありがとうございます」
「………」
「って、お礼言うの、変だね」
照れくさそうに笑う彼女に愛しさが募って、何だか堪らなくなって、その額に熱を落とした。
・・・
――――翌日は快晴だった。
昨日までの豪雨が嘘のような晴れ模様。
雨が止んだ後の外はひんやりと肌寒い。
初夏の風に乗って、緑のみずみずしい空気が肺に入り込んできた。
路傍にひっそりと咲いているシロツメクサから透明な雫が滴り落ちて、青葉に弾ける。
アスファルトに残る水溜りには雲ひとつない、澄んだ青空が映し出されていた。
助手席に置いたままの袋を手に取り、運転席から降りる。
まだ朝の6時前、周囲に人の姿は見当たらない。
歩く度にカサカサと小刻みに音が弾むレジ袋の中には、コンビニで購入した物が沢山詰まっている。
売れ残りの弁当におにぎり、パン、デザート。
俺一人で食べ切れる量ではない。
そして勿論、これは俺の朝食でもない。
彼女のものだ。
この殆どの量が彼女の胃の中に納まってしまうんだろうと思ったら、少し笑えた。
3階の彼女の部屋に着き、鍵を差し込んで回す。
ゆっくりと扉を開けると、浴室の方から微かに水音が聞こえてくる。
まだベッドの中で眠っているだろうと思っていたけれど、俺が外出中に目が覚めていたようだ。
靴を脱いでいる最中に、シャワーの音は止んだ。
室内はまだカーテンが閉められたままで、照明も消えたままで薄暗い。
買い出し物をテーブルの上に置いてその場に座り、鞄の中からスマホを取り出した。
昨晩掛かってきた電話はやはり自宅からで、一度きりのコールの後の着信はない。
これまでも同僚達との飲み会や、無理やり付き合わされた合コンで朝帰りになった事は一度や二度ではない。家の奴らもそれをわかっているのだろう。
とはいえ今回は飲み会でも合コンでもない。
朝帰りの理由を問われたらどう言い訳するかな、そう考えていた時。
「……お帰りなさい」
控えめな声が聞こえてきた。
目を向ければ、タオルを手に持って歩いてくる水森の姿がある。英字がプリントされたトップスとショートパンツ姿の、ラフなルームウェアに着替えていた。
「……帰っちゃったのかと思いました」
「ごめん。一応、メモは残しておいたんだけど」
出掛けてる間に彼女が起きてしまったら、俺が居ない事に戸惑うかもしれない。そう思って、紙切れにメモ書きを残しておいた。
そのメモがテーブルの上から無くなっている。
目は通してくれたようだ。
「何か、買って来てくれたんですか?」
「朝メシ。コンビニで弁当とかパンとか色々買ってきたけど。どれ食べる?」
「全部」
「だよな」
そう言うと思った。
苦笑しつつ、レジ袋を手に持って彼女に差し出す。受け取った袋の中身をまじまじと物色していた水森の視線が、ふと、俺に向いた。
「あの、お代」
「いや、別にいいよ」
「でも、今回は200円じゃ済まない量ですよ」
「じゃあ俺も食う。半分こしよ」
「……はんぶんこ」
ぽつりと呟かれた。
半分の量だとやはり不満なのかと思ったら、そうではなかったらしい。
コーヒー淹れてきますね、そう言ってキッチンへと向かった水森は、どこか嬉しそうに見えたから。心なしか、声も弾んでいるように聞こえる。
何か、嬉しがるような事なんか言ったか。
女子ってよくわからん。
レジ袋から中身を取り出して、テーブルの上に並べる。
弁当が3つにパンが5つ、おにぎりも5個。
追加でデザート2つ。
自分で買ってきておいてアレだが、改めて見ると凄い量だ。
普段から水森の食いっぷりを見てるから、最近だとこんな量でも然程驚かなくなってしまった。慣れとは恐ろしい。
しかし朝からこの大量のご飯を腹に入れてしまったら、普通であれば仕事に支障をきたす。
腹痛や胃痛に苛まれる事もあるし、何より満腹状態は眠りを誘う要因になる。昼食だって箸が進まないだろう。
なんて事を考えてしまうのは、俺が真面目すぎるからなのか。
けど間違ってはいないと思う。
腹八分目というのは何事においても大事だ。
けどそれはあくまで一般人の場合であって、水森の場合はそうではない。
彼女の場合、お腹に何も入れないこと自体が非効率だ。
満腹状態である事がマイナスになるなんて彼女に限ってないのだろう。羨ましい限りだ。
水森との最初の出会いを思い出す。
お腹が空いた、それだけで道端で倒れてしまった女の子。
今思い出しても、凄い出会い方だ。
「……なんですか?」
隣に座った水森は、俺が思い出し笑いしている様子を訝しげに見つめている。
「空腹で倒れてた誰かさんの事を思い出してた」
「……あれは黒歴史ですから忘れてください」
「あれは忘れようとしても忘れられないって」
「言っておきますけど、お腹が空きすぎて倒れたなんて、後にも先にもあれ一度きりです」
「へーそうなんだー」
「棒読み……」
本当なのに。
彼女はぶつぶつ言いながら、弁当を手前にぱちんと割り箸を割った。
俺も同じように割り箸を手に取って2つに割る。
いただきます、2人揃って食前の挨拶を交わして朝ごはんにありついた。
弁当の量がどうとか味がどうだとか、互いになんやかんやと言い合いながら箸を進めていく。
「あ、」
「?」
「さやか、これ食って」
「え?」
「俺これ嫌い」
弁当の片隅でさりげなく存在を主張しているソレを箸で摘み、おもむろに彼女の口元まで運ぶ。
目の前に差し出されたソレと、箸の先と、俺と。
順に見ながら、彼女は無表情のまま固まってしまった。
今度はどうした。