#23
カチリ、と無機質な音が響く。
静かに開けられたドアを手で押さえて、どうぞ、と中に促された。
お邪魔します、控えめに言ってから足を踏み入れる。
動きがぎこちなくなってしまうのは、もう致し方ないという事で。
散らかってますけど、気まずそうに言った水森の部屋は、予想に反してシンプルな印象だった。
女の子の部屋というイメージは正直なく、全体的に物が少ない。そしてナチュラル素材の物を上手に取り揃えていた。
パイル材のラックやキャビネットには観葉植物が飾られていて、随所随所に籐カゴが置いてある。テレビやPCには麻の布が被せてあり、生活感が見えないように工夫を凝らしていた。
背の低い家具で揃えているせいか圧迫感が無く、部屋が広く見える。ロースタイルってやつだ。
「あの。適当なところに座っててください」
「あ、うん」
そう言って水森はキッチンの方へ向かってしまったので、俺は大人しくその場に座る。正直、女の子の部屋というものに慣れていなくて居心地が悪い。
中学の頃に付き合っていた彼女とはすぐに別れたから、部屋に足を踏み入れた事は無い。
高校は男子校だから、女とはほぼ無縁の生活を送っていた。
卒業後はすぐ今の会社に入社して、ひたすら仕事に没頭する日々。
合コンの数合わせで仕方なく参加したことはあったけど、女に無関心だった俺に、色気ある展開なんてあるわけもなく。
落ち着かないな、そう思っていた時。
ぽて……、と膝元に何かが触れた。
見下ろした先にいたのは、以前水森が紹介してくれたウサギのウサ子。
ふわふわした毛並みが揃った両前足を、ちょこんと俺の足に置いてくる。垂れた耳は相変わらずだ。
撫でれば、気持ちよさそうに瞳を瞑っている。
「あっ」
キッチンから出てきた水森の手には、コーヒーカップが2つ握られていた。
それらを一旦テーブルに置き、慌てて俺の傍に駆け寄る。両手でウサ子を抱き上げた。
「すみません」
「いや。その子、部屋に放し飼いにしてんの?」
「いえ、私がいない時はケージの中に入れてるんですが。この子、勝手に扉開けて外に出ちゃうんで困ってます」
腕の中で大人しくしているウサ子に、悪びれた様子は全くない。
「利口なんだ」
「トイレはちゃんとケージでしてくれるんですが。家の中って危ないものも多いから」
「不在の時に怪我したら大変だしな。ケージ変えるしかないんじゃないか?」
「陽鳥園さんに相談しようと思ってます」
「陽鳥園?」
「ペット屋さんです。そこでこの子とモル男を見つけて、引き取っちゃいました」
目を向ければ、部屋の片隅に2つ分のケージが見えた。
「2匹一緒に?」
「この子達、仲良しで。一緒のケージに入ってたんです。どっちか片方買っちゃったら、離ればなれになっちゃって可哀相だから」
「へえ……」
なんでもウサギとモルモットは温厚な性格で、相性もいいらしい。ペットとして2匹一緒に飼う人も多いそうだ。
そのモルモットのモル男はウサ子と違い、ケージの中で大人しくしている。黒と白の毛の混じったもっさり具合は健在で、今日も今日とてモップと化していた。
水森は2つ並んだケージのうち、空いているケージの方にウサ子を戻した。
しっかりと扉を閉めた後、大きめのタオルをケージの上に被せている。
そんな彼女の格好は今、薄く青みかがったシャツ姿だった。
黒ジャケットが雨で濡れてしまったから脱いだのだろうが、男の前でその格好は、少し無防備すぎないか。
そう思ってしまうのは、俺が過剰に意識しすぎているせいなのか。
テーブルの上に置かれたコーヒーカップから、珈琲豆の香ばしい匂いが漂ってくる。
ケージから戻ってきた水森は、カップを手に取り、そのうちの一つを俺に差し出してきた。
大人しく受け取れば、彼女は当たり前のように、俺の隣に座る。
水森はいつもこの位置だ。ご飯会の時も、彼女は俺の前ではなく、隣に座る事が多い。
向かい合わせだと食べてる所を見られるし、目が合うのも恥ずかしい、そう言っていた。
気持ちはわかるけど、幸せそうな顔で食べる水森の姿を見るのが好きだったから、本音を言えば向かい合わせの方がいいんだけど。
それを直接、口にしたことはない。
「テレビ、つけてもいいですか?」
「ん、どうぞ」
この微妙な雰囲気で、何かしら雑音があるのはありがたい。気まずさも少しは和らぐ。
水森も、そう思ったからこその発言だったのかもしれない。
彼女の指がリモコンの電源ボタンを押す。
画面に映し出されたのは、明日の天気予報。
「明日、晴れみたいですね」
「雨でどうなるかと思ったけど、良かったな」
「はい」
窓に視線を向けるもカーテンで阻まれていて、外の様子は確認できない。
ただ、さっきまでの酷い豪雨は過ぎ去ったようで、室内は静かな時を刻んでいる。
「雨も一時的なものだったのかもな」
「そうですね」
「じゃあ、これ飲んだら帰るよ」
「……はい」
掠れたような声がどことなく落胆しているように感じたのは、気のせいか。
「……あの」
「ん?」
「……もう少しだけ、隣に行ってもいいですか」
「……どうぞ」
そう答えれば、水森が隣にぴたりと寄り添ってくる。手にはまだ、コーヒーカップが握られたまま。
ちらりと彼女に視線を移せば、相変わらず無表情に近い横顔が、ほんのり赤く染まっていた。
まるで伝染したかのように、自分の顔まで熱くなる。
つい視線を逸らした時、にわかに緊張の走った肩に、トン……、と水森が頭を傾けてきたから驚いた。
いきなり部屋に誘ったり、くっついてきたり、今日は随分と距離を縮めてくる。普段は素っ気無いのに。
どういう心境の変化だと戸惑いつつ、普段と違う水森の様子に否応にも胸が高鳴っていく。
肩にかかる重みが心地よい。
衣服越しに感じる体温が、緊張で凝り固まった体を解していく。
俺も水森に寄り添うように、肩に預けられた頭に頬をくっつけてみる。仄かなシャンプーの香りが、ふんわりと鼻腔を掠めた。
苦痛じゃない沈黙が続く。
お互い何も言葉を交わさないまま、そのままの体勢でまどろんでいた。
……なんだ、これ。
滅茶苦茶、いい雰囲気なんだけど。
「……キリタニさん」
「……ん?」
「あの、お風呂沸いたので。入っていきませんか」
「……え?」
予想すらしていなかった問いかけに驚いて、体を離して彼女の横顔を見返した。
「あ、その。雨で濡れちゃった、から」
「……」
「体、冷えちゃってると思うし。温めた方が、いいのかなって」
「……」
しどろもどろになりながら、必死に言葉を紡ぐ彼女の姿に後悔を抱く。
俺は実家通いだけど、ここから離れているわけじゃない。車で10分程度の距離だ。
10分だけ車で走れば、そこはもう俺の自宅。風呂なんてすぐに入れるわけで、此処でわざわざ浴室を借りる必要はない。
それは水森自身もよくわかっているはずで、それなのに彼女はお風呂でも、と言う。
やっぱり、水森が俺を部屋に誘ったのは意図がある。それが何なのかも、俺はもうわかってる。
そこまで鈍くはなれない。
水森の立場になって考えてみた。
3ヶ月。
もう、3ヶ月だ。
一向に自分に触れてこようとしない彼氏の存在を、彼女自身はどう思っただろう。
少し前の水森は、見た目も中身も『子供っぽい』自分を悲観していた。
その所為で受けた過去の痛みは、まだ完全に癒えていないはずだ。
俺が触れてこないのは自分の所為だと、そう思っているかもしれない。そんな訳ないのに。
腕を回して、彼女の頭を抱く。
こめかみに唇で触れれば、水森は驚いたように俺を見上げた。
「……もういい」
「……え」
「俺が悪い」
自分達のペースでいいなんて、思うように彼女に触れられない自分を正当化したいが為の言い訳だ。
本当はずっと触れたかった。
腕の中に閉じ込めて、掻き抱いて、自分だけのものにしたかった。
そんな風に思ってしまう自分を「ガキっぽい」とか「格好悪い」と思ってた。そんなダサい自分は見せたくないと虚勢を張っていた。
ちっぽけなプライドの所為で彼女を気に病ませてしまっていたなら、そっちの方がよっぽどダサくて格好悪い。
水森は見た目のトラウマを抱えながら、それでも前に進もうと頑張ってくれた。
やり方が拙くても、必死でも、不器用なりに自分達との関係を進めようとしてくれている。
なら、今度は俺が頑張る番、だよな。
「水森」
「は、はい」
「1人で勝手に不安がるな」
「……え」
「俺も同じ気持ちだから」
目を見開いている彼女に、小さく笑いかける。
そのまま後頭部に手を添えて、強引に引き寄せて唇を塞いだ。
口付けたまま、彼女の手からコーヒーカップを奪ってテーブルに置く。
濡れた唇から、ほろ苦い珈琲の味がした。