#20
エレベーターから降りた後。
玄関口へと目を向けた先に、水森がいた。
大きな買い物袋を両手に1つずつ握っている。
コンビニで購入してきたらしいお菓子の山が、レジ袋の中にたくさん詰められていた。
まさか全部、自分が食べる分じゃないよな。
彼女なら十分有り得る話なだけに苦笑してしまう。
大食いチャンプの水森なら、あの程度の量など屁でもないだろうけど。
水森は少し俯き加減で、慎重に歩を進めている。
袋から菓子が零れ落ちないように、気を張っているのだろう。
俺の姿には気付いてはいないようだった。
「水、」
「──水森!」
名前を呼ぼうとした矢先、先に彼女を呼ぶ声が遠くから呼び掛ける。
顔を上げた水森が目を向けたのは、当然俺じゃなくて、もう一人の方で。
「清水課長」
「探したよ。ちょっと水森に頼みたい事があって」
切羽詰まったその口調から、急用なんだろうと悟る。なら話が終わるまで待とうかと、近くの柱に寄りかかった。
数歩先にいる2人のやり取りを眺めていたら、清水課長の視線が俺の姿を捉える。見すぎていたのがバレたかと、申し訳ない気分に苛まれた。
そんな俺の様子に気付いたのか、清水課長の口端が上がる。
そして再び、水森に視線を戻した。
「……」
……なんだよ。
なんか、癪に触る。
「至急この書類を頼みたいんだけど、いいか?」
「私でいいんですか?」
「本当は担当の子に頼むべきなんだろうけど、急ぎなんだ。ここだけの話、水森が一番仕事早くて正確だからさ。内密に頼むよ」
両手を顔の前で合わせながら懇願する清水課長の前でも、水森の無表情っぷりは崩れることがない。
「わかりました」
「うん、助かる。今度メシでも奢るよ」
「はい。至急仕上げてメールに添付して送ります」
「ありがとう、よろしく」
そう言いながら、清水課長はエレベーターの奥へと走り去っていく。
課長が消えた後、手渡された書類とレジ袋を抱え直した水森の視線が、不意に横に逸れた。
そこでやっと、俺の姿に気付く。
驚きで目を見開く彼女の頬が、ほんのりと赤く染まった。
清水課長の前では無かった表情の変化が、俺だけの特権のように感じて嬉しくなる。
柱から体を離して、彼女に近づいた。
「キリタニさん」
「お疲れ」
「お疲れ様です」
「すごい荷物だな。ひとつ持つか?」
「大丈夫です。私物だし、これでも軽いので」
「やっぱそれ、自分用なんだ」
「常備品は欠かせません」
常備品にしてはその量の多さたるや。
しかしその声には珍しく、力が篭っている。
水森がそう力説するのには理由があった。
俺達が出会ったあの日。
水森が空腹で倒れてしまって、偶然通りかかった俺が助けたあの時。彼女は絶対必須の『常備品』を忘れてしまったらしい。
空腹を感じた時に小腹を満たせるようにと、彼女は常日頃、何かしらお菓子を携帯している。それは飴だったりチョコだったり、種類は様々だ。
それを、あの日に限ってカバンの中に忍ばせておくのを忘れてしまい、しかも運悪く、ご飯抜きの状態だった。空腹のまま、朝から夕方まで歩き通しだったという。
その失態こそが、彼女を行き倒れという結末に導いてしまった、らしい。
「これから外回りですか」
「うん」
「今日、夕方から雨マークでした」
「え、雨降るんだ?」
「天気予報では雨みたいです」
「知らなかった。それまでに帰ってこないとな」
「……」
ぼやく俺の前で、真っ直ぐな瞳がじっと見上げてくる。
何かと思って俺も見返すけれど、いつも無表情な彼女から思考や感情を読み取るのはなかなか難しい。
それは付き合い始めて3ヶ月経った今でも変わらない。
「……水森」
「はい」
「ごめん今何考えてる」
「疲れてるのかなあ、って思ってました」
「あーそうだな。少し疲れてるかも」
体力的には全然だが、心労が絶えない。
俺と水森の関係をしつこく探ろうとする川井もそうだが、周囲からの好奇な視線とか、今しがた見た水森と清水課長とのやり取りとか。それこそ挙げればキリがない。
水森は他の男性社員とも仲がいい。
と言っても川井同様、「すれ違ったら話す程度」だけど。
それでも、彼女が他の奴と話している姿を見ると、心は穏やかではいられない。
自分がこんな嫉妬深い人間だったなんて知らなかったから、余計に。
付き合う以前の水森は、見た目も中身も「子供っぽい」自分に落ち込んでいた。
けどこういう時、思う。
俺の方が全然、ガキっぽい。
嫉妬心に駆られて自分を見失いそうになるとか、感情ひとつもコントロールできないなんて情けないと思うけれど。
いいように彼女に振り回されている事を自覚する。
そっと周囲を見渡してみる。
まばらに人は居るものの、俺達を気に掛ける輩はいない。
それをいいことに彼女との距離を詰めて、耳元に唇を寄せた。
「なあ、疲れた」
「はい」
「癒して?」
「……」
至近距離で目が合う。
じっと俺を見上げる瞳が、動揺の色を見せた。
無表情なのは変わらずだが、そんな些細な変化が間近で見られるのも嬉しい。
「……癒す」
「うん」
「わかりました」
お。
まさか承諾されるとは思っていなかった。
好きな子にそんな事を言われたら、何してくれるのかと期待してしまうのは男の性なのか、それとも惚れた弱みなのか。期待感で胸を膨らませる俺の前で、水森は2つの買い物袋を床に下ろした。
しゃがんだまま袋の中身を漁りだし、何かを取り出して立ち上がる。
その手には、謎の物体が握られていた。
「……なんだそれ」
「備長炭味のペロペロキャンディです」
水森が見せてくれたのは、串が刺さった円盤型の形状をした大きな飴だった。
よく露店や駄菓子屋で見られるそれは、赤・黄・青などの色が渦巻状となって描かれている、はずだ。
けれど目の前に差し出されたそれは、いくつかの色どころか黒一色で覆われていて、渦巻状の模様らしきものもない。
どす黒い色に染まったその飴からは、禍々しいオーラが放たれている。
「……真っ黒なんだけど」
「備長炭味ですからね」
どうぞ、と躊躇いもなく差し出された。
何の感情も含んでいないような真顔が俺に迫る。
汚れなき純粋な瞳は真剣そのもので、射抜くような眼差しが突き刺さる。
なにこの展開。
癒しはどこいった。
「……あのさ。そうじゃなくて、他に何かあるだろ」
「何かとは」
「俺はもっと色気ある展開を予想してたんだけど?」
「社内でそんなものを求められても困ります。さあどうぞ」
「癒してくれるんじゃなかったのか」
「これを食べれば、あまりの不味さに疲れも吹っ飛びます。さあどうぞ」
「そんな癒しこそ求めてない」
「さあどうぞ」
「……」
聞く耳持たない。
え、なにこれ……俺に死ねってこと……?
「……ありがとう」
「いえ」
強気なセールスから逃れられないと悟った俺は、大人しくそのダークマターを受け取ることにした。
受け取る寸前、水森がぺりっと包装を剥いでくれたお陰で、今すぐ食べられる仕様済みだ。
食べられる……食べられんのこれ……?
確かに口に入れた瞬間に疲れが吹っ飛びそうだけど、同時に魂も吹っ飛びそうだけど。
とはいえ、逃げられる状況でもない。
彼女の手から俺に渡ったダークマターを、とりあえず一口だけ、と舐めてみる。
「どうですか」
「……うん……すごく………………まずい」
「備長炭味ですからね」
……それさっきも聞いた。