#16
水森が事前に予約をしてくれたレストランは、床以外は一面ガラス張りの、深海に染まる蒼の空間が広がっていた。
何十種類もの色とりどりの魚が、視界全体を悠々と泳いでいる。
その光景は圧巻としか言いようが無い。
客の目線は食事よりも外に釘付けになってしまって、それは俺も水森も同じだった。
まるで海の中にいるんじゃないかと錯覚してしまうような造りに、感嘆の息が漏れる。予約制にしなければならない程の人気なのも、納得がいった。
ずっとここに来てみたかった、そう告げる水森の表情に、相変わらず笑みはない。
けれど、蒼を映し出す瞳はきらきらと輝いていて、頬もほんのりと紅潮している。
声も嬉しそうに弾んでいて、その様子は確かに普段より、子供っぽい。
でも、冷めたなんてひとかけらも思わなかった。
むしろ、もっと笑ってほしいとすら思う。
できれば他の誰でもなく、俺の前だけで。
その権利を得る為にも、やっぱり彼女に気持ちを伝えないといけない。
・・・
手首にはめた、蒼の結晶の輪。
ターコイズのブレスレットの感触を確かめるように、水森が指先でなぞっていく。
「本当にありがとうございます」
「いや。今日付き合ってくれたお礼だから」
「私、パワーストーン好きなんです。すごく嬉しいです」
「喜んでもらえてよかった」
海中レストランで昼食をとり、その後はイルカやアシカのショーを見て、夕方に閉館。そのまま近くのレストランで食事をして、今はその帰り。
時間は既に20時を過ぎていた。
車内に乗り込んですぐに、土産のコーナーで購入しておいたアクセサリーを彼女に手渡せば、驚きで目を見開いている水森の頬が、また赤く染まった。
相変わらず笑みは無いけれど、嬉しがってるのは目と頬の具合でわかる。
ご飯会の度に、彼女がパワーストーン系のブレスレットを身につけていた事には気付いていた。
好きなのかと思ってターコイズのブレスを選んでみたけれど、予想以上の反応を貰えたから安心した。
そうして思う。
好きだなって、彼女への想いがこみ上げる。
夕食も済ませたら、後はもう、彼女をマンションまで送り届けるだけだ。
けど、そのまま真っ直ぐ帰るのも抵抗があって、あからさまに遠回りな道を選んで運転する。
わざとらしいよな、そう思うけれど。
もう少し一緒にいたい、幼稚で我侭な望みがそのまま行動に出てしまった。
水森もきっと、俺がしている事の意図に気付いてる。
けど何も言わない。
俺も、水森も、恋愛に関して鈍い方じゃない。
お互いにどう思ってるか、思われてるか。
もう既に気付いてる。
水森も俺を好いてくれている。と、思う。
あとは口に出すタイミングだけど、これが正直迷う。
本当は今日伝えたいけれど、いきなり告白しても困らせるんじゃないかと、ネガティブな思考が決意を迷わせていた。
逆に水森の方は、俺に気持ちを伝えようという意思は持っていないように感じる。
だから俺から伝えないと。
でなければ、いつまでたっても俺達は平行線のままだ。
「……あ」
思考を巡らす俺の傍らで、彼女が小さく言葉を発した。
「……日経新聞見るの忘れてました」
「あ、俺買ってきた。見る?」
「はい」
一旦、路肩に車を停める。
後部座席に置いてある買い物袋に手を伸ばし、目的のものを取り出した。
株投資を始めた人の殆どは、日経新聞を読むのが当たり前になっていく。
それは水森も同様だったようで。
「あの」
「ん?」
「この漢字、何て読むんですか?」
「どれ?」
「これです」
彼女が指し示した箇所を、俺の覗き込むように体を傾ける。
そうすれば、互いの顔も自然と近くなる。
ひとつのものを2人で一緒に見る、その距離の近さが嬉しいなんてほんと重症だ。
「……っ、すみません」
この狭い車内で、相手の事を意識してしまうには十分すぎる距離感。すぐ間近で目が合ってしまい、水森が焦ったように視線を逸らす。そのまま新聞を握ったまま、俺から離れようとした。
咄嗟に彼女の手を掴む。
引き止めるかのように握り締めて。
告げた。
「好きだ」
……言った。
直球過ぎた。
けど言葉を選んでる余裕なんて今は無い。
張り詰めていた空気が瞬時に変わったのを、肌で感じ取る。
俺の突然すぎる告白に、水森は戸惑いの表情を見せた。
「多分、もう気付いてたと思うけど」
「……」
「俺、水森のこと好きだから」
「……はい」
「やっぱり、気付いてた?」
「……先日から、なんとなく」
「俺わかりやすかったよな」
「……あの、いつ頃から」
水森が気まずそうに問いかけてくる。
手を離せば、空気が和らいだ気がした。
さっきまで強張っていた体は、ずっと秘めていた想いを口にしたことで力が抜けた。
心も軽く感じる。
あとはもう、溢れてくる想いを口に乗せるだけだ。
「わりと、最初から」
「……最初から」
「うん。出会った時から、俺結構、水森のこと気に入ってて」
「……」
「ちゃんと自覚したのは最近だけど、本気だから」
「……はい」
「だから、付き合いたい。返事、考えておいて」
「……」
彼女は素直に頷かない。
やっぱり突然すぎたか、考える時間をあげた方がいいのかと思ってそう告げたけど、水森は無言のまま俯いている。
内心焦る俺に、彼女はやっと顔を上げた。
「か、考えるまでもないです」
「……え」
「私も、好きです。キリタニさんのこと、好きでした」
「……」
「私もお付き合いしたい……です」
膝上に置いた新聞の、その上で作られている握り拳が微かに震えている。
その震えが緊張からなのか、それとも怯えからなのかはわからない。
けれど水森の口から零れた告白は、まるで芯が一本通っているかのように、真っ直ぐと俺の耳に届いた。
正直、不安な部分もあった。
デートに誘った事も含めて、俺のアプローチに彼女は否定的ではなかった。
水森が俺に向けている想いは、俺が水森に向けているものと同じ類だと直感的に感じてはいたものの、それだって確信は無い。
たとえ同じだったとしても、過去のトラウマから告白を受け入れてもらえないかもしれない、そんな不安もあったから。
けれど、彼女は俺の想いに応えてくれた。
チャンスをくれた。
固く閉ざされている拳に、そっと触れてみる。
そろりと覗き込むように、水森は俺を見上げてきた。
揺らめいている瞳の奥には、隠しようのない淡い想いが滲んでいる。
「ありがとう」
「……いえ」
「……あのさ。いつ頃から」
「あ……私も、わりと最初からです」
「そう、なんだ。全然気付かなかった」
「すみません、私表情無いし存在感薄いから」
「いや、存在感の薄さは関係ないと思う」
至極真面目に答える水森に苦笑する。
ていうか全然薄くない。
あんなに皆から好かれてるくせに。
ずっと駐車しているわけにもいかず、一度手を離して、ハンドルをきって車を動かす。
街灯がともる道のりを辿っていけば、その先にあるのは本来の目的地だ。
「……はあ」
聞こえてきた溜息に視線だけ向ければ、水森が長く息を吐いて、背もたれに深くもたれかかっていた。
夢見心地のまま、瞳が眩しそうに細められる。
「夢みたいです」
「ん?」
「片想いで終わると思ってたので」
「……そっか。じゃあ、言ってよかった」
「キリタニさんは、入社時から人気があったので。仲良くなる前は、遠い存在の人みたいに思ってました」
「前から俺の事知ってたのか?」
「名前だけは知ってました。まさかあの時助けてくれた人が、そのご本人だとは思っていなかったけれど」
「あれは、びっくりした」
「思えば、すごい出会い方でしたね」
微かに笑う気配がする。
運転しているから仕方ないとはいえ、貴重な笑顔を拝見できなかったのが悔しい。
その後といえば、出会った頃の思い出話に花が咲いて、気まずかった空気はいつの間にか消えていた。
知り合ってまだ、1ヶ月と少し。
その期間の殆どを、水森と共に過ごしている。
例えば、出社した時に会って交わす挨拶。
昼休憩中にも関わらず、仕事の話なんていつもの事。
会社の外に出れば『ご飯仲間』として色んな店のリサーチをして、会社の中ではなかなか出来ない株の話でまた盛り上がって。
気がつけば数時間に渡って語り合う事なんて、ざらにあった。
めまぐるしく過ぎていく日々に色を落とすように、彼女と過ごす時間は鮮やかに溶けていく。
今度は彼氏として、新たな色を落としていく。
新たな関係でまた彼女と関わっていけるんだと思うと、心にくるものがあった。