#07
「お疲れ様」
研修が終わった後、水森が会議室から出てくるのを廊下で待つ。姿を見つけたと同時に声を掛ければ、振り向いた彼女は驚いた様子を見せた。
それだって、表情筋に動きはほぼ無いが。
「キリタニさんも、お疲れ様です」
「うん。あのさ」
「はい」
「今、ちょっと話せる?」
そう伝えれば、彼女ははたりと瞬きを落とした。
「今ですか?」
「いや、用事があるならいいんだけど」
大した用件じゃない。
例のファイルが気になっただけで。
……あと、少し話をしたかった。
「いえ、大丈夫です」
「ありがと。あー……どこで話そうかな」
「聞かれたらまずいお話ですか?」
「いや。多分、それは大丈夫」
「では、1階のロビーで待ち合わせしませんか」
彼女の提案に、俺も頷いた。
清水課長の研修は17時から。
つまり勤務外なわけで、給料は出ないが参加も自由となっている。セミナーならともかく、企業義務の一環として行われる研修が自由参加なのは珍しい。参加を見送った人も多い。
こんな時間まで残っていた社員とて、用が済めば早々に帰り支度を始め、オフィスを後にしていく。営業時間外の社内に、人の姿はほとんど無い。
急いでロビーへと足を運べば、その場にいたのは水森だけで、周囲には誰もいなかった。
「ごめん、誘っておいて待たせた」
「全然待ってないですよ。大丈夫です」
顔を上げた水森はやっぱり無表情だ。
でも不機嫌な様子ではないし、どこか、ほんわかとした雰囲気を放っている。ほとんど笑わないが無口というわけでもないし、むしろ、よく喋る方だと思う。
誰に対しても敬語口調で、感情を露にする事も無い。いつも冷静だ。
「あの、話って」
「あ、うん」
先を促されて、口を開く。
「研修の時にさ、手に持ってたファイル。付箋たくさん貼ってあったから気になって」
「……え」
ふと、彼女の瞳に陰りが見えた。
不安げな視線を向けられて、少し焦る。何かを警戒しているように見えた。
触れて欲しくない事、だったんだろうか。
水森以外にも、マーケ社員の姿はあった。
けれど、あの場にファイルを持参していたのは水森だけだ。
だから余計に気になった。
あの付箋だらけのファイルは、彼女の努力の表れなんじゃないかと。
けれど水森が嫌がるのであれば、それ以上迫る気は無かった。
「あ、ごめん。見せて欲しいとかじゃなくて。どういう使い方してるんだろうと思って」
「……使い方?」
「俺、付箋の使い方が下手で」
咄嗟に話題を変えてみたけど、うまく功を成した様だ。彼女は興味津々といった感じで、俺の話を聞いている。
「便利なんだけど、すぐに剥がれ落ちるから苦手なんだ」
「あ、わかります。粘着力の低いタイプは面倒ですよね」
「粘着が高い低いとか、あるんだ」
「フィルムタイプの付箋なら、剥がれないです」
そう言って、彼女は手提げバッグの中を漁り出した。
取り出したのは、多種多様な付箋たち。
スタンダードなカラー付箋の他にも、絵柄付きの物や和風素材まで揃っている。
「こんなにあるんだ」
「フィルムタイプは粘着力が高いし、透明で出来てます。下に書いた文字が透けるので、使い方によっては便利ですよ。他にもマグネットタイプもあります」
「へえ……」
「付箋も日々進化を遂げているんです」
真面目に茶化されて、笑みが漏れる。
「水森って、なんか」
「?」
「文房具好きそう」
「好きですよ。可愛いものもたくさんありますし。使い方次第で仕事も捗ります。基本デスクワークだし、根詰めてると疲れてしまいますから。可愛い小物達に癒されてます」
「ああ、そういう使い道ね」
女の子ならではの発想だ。
男の俺ではそんな思考には至らない。
彼女からは、他にも沢山の使い道を教えてもらった。カラー付箋紙を貼ったページには同色のマーカーを使う、など。
正直、全て実践に結び付くかどうかは謎だけど、水森と話せるなら話題は何でもよかった。
その時ふと、周囲が薄暗くなる。
天井を見上げて、状況を理解した。
「そろそろ、帰らないとな」
「そうですね」
19時を過ぎると、アジュールのエントランスは照明が落ちる。ロビーも必要最低限の光が漏れているだけだ。
「ごめん、こんな時間まで引き止めて」
「……あの」
「うん?」
「ごはん、食べに行きませんか」
「……え」
……まさか、彼女の方から誘われるとは思っていなかった。
本音を言うと、俺も誘いたかった。
でも昨日、例の店に行ったばかりだ。誘うにしても、数日空けてからにしようと思っていた。必死な様を見せるのが格好悪くて嫌だったから。
だからこの展開は、想定外で。
「おなか、すきすぎて」
「………」
「倒れそうです」
告げる語尾は弱々しい。
先日、道で倒れかけていた彼女の姿が脳裏に浮かんで笑みが漏れた。
小さく笑い声をたてれば、水森は恥ずかしそうに頭を垂れる。
「……もう忘れてください」
「いや、無理かな」
あんな衝撃的な出会いは、この先きっと無いと思う。
「じゃあ行くか」
「え」
「ご飯。店、リストアップしてるって言ったじゃん」
グルメアプリの履歴はまだ残ってるし、いくつかブックマーク済みだ。
彼女好みの店が見つかればいいけれど。