#10
卯月さんと一緒にいたいと強く願ったのは、私が彼を好きだからだ。
じゃあ彼のどこが好きなんだろうと考えた時、何も頭に浮かんでこない。こういう所が好き、だと思う部分はあれど、それは人として好意的に思う部分であって、その部分に惹かれたという実感はない。
もともと彼は、私の最も苦手とするタイプの人間だった。俺様気質で無愛想、口も悪くて上から目線の口調と態度。絶対好きにはならないと思う人。
でも、好きになった。
特別な人になってしまった。
一緒にいる時間が増えて、見えていなかった彼の人となりが見えてくる。実は世話焼きで面倒見がよくて、几帳面で真面目な人。綺麗好きで家事能力に至っては完璧。私より、いや、そのへんの女子よりも女子力は強いと思う。
そういう意外性に惹かれたのかな? とも思ったけれど、やっぱりピンとこない。
人が人を好きになるのは、そのキッカケとか過程があるはずなのに、それもわからない。
実際に離ればなれになってから、初めて彼の存在の大きさに気づかされた。
ただ仲良くなれたから寂しいだけ、というだけの話であれば、彼が部屋に訪れた際、あんなに号泣するほど取り乱したりはしない。
今までたくさんの出会いと別れを繰り返して、これほどまで離れたくないと願った人は、過去にいないと思う。
卯月さんはやっぱり、どこまでも私の調子を狂わせる人だった。
お風呂上がりに、隣同士でベッドに座る。
卯月さんは上半身裸で、私はバスタオルを1枚体に巻き付けているだけの状態。うっかり落ちたりしないように、胸元でタオルの端を手で握った。
緊張で体が強張っている。
またこの人に抱かれるんだと思ったら、甘い鼓動が胸を打った。
卯月さんの腕が肩に回る。
引き寄せられて、間近にあった彼の顔が傾いた。
あ、と声を掛ける暇もなく、唇が塞がれる。
「ん……っ」
触れ合った場所から、熱が広がっていく。
キスも、この人に抱かれるのも初めてじゃないのに、心臓がばくばくして落ち着かない。タオルを握る手にも、汗が滲む。
変だ。こんなこと、もう慣れっこのはずなのに。
「これが初体験です」みたいな、このただならぬ緊張感は何だろう。
いつもみたいに、濃厚なキスができない。
初々しい反応しかできない。
初めて抱いてもらったあの日ですら、最初は上手く出来ていたような気がするのに。
身動きできず、黙って彼のキスを受け入れている私から、唇がゆっくりと離れていく。
私を見つめる卯月さんの、薄い唇が弧を描く。
「……顔怖いんだけど」
「う、だって」
どもって、その後の言葉が続かない。
なのに、卯月さんは更に追い打ちを掛けてくる。
「奈々からもキスして」
「っ、え」
「早く」
私の意思なんて関係ないらしく、一方的な要望を押し付けて、卯月さんが瞳を閉じる。待ちの体勢になってしまった。
目の前に、綺麗な顔がある。
鼻がぶつかりそうなくらい至近距離に、卯月さんがいる。
長い睫毛。端整な顔立ちに、今は閉じられているけど、透き通った青い瞳は少しだけ吊り目がちで、冷淡な印象がある。
でも屈託なく笑うと目尻が下がって、ちょっとだけ可愛くなる。動物に例えるなら、猫みたいな。
ゆっくりと顔を近づけて、その薄い唇に自らの唇を重ねてみる。
すぐに身を引こうとしたけれど、唇を離した直後、卯月さんの唇がすぐ追っかけてきた。
噛みつくようなキスを受けて、その勢いのまま、ベッドに押し倒される。
「……奈々」
「んっ」
卯月さんは飽きることなく、上から何度も唇を触れ合わせてくる。
求めるように貪られて、暴かれる。
息が苦しい。
酸素を求める口が僅かに開いた瞬間を狙って、今度は生温い感触が咥内に割り込んできた。
「ふ……ん、ぁ」
艶かしい声が漏れる。
舌を掬われて、絡め取られる。歯列も上顎もなぞられて、ぞくぞくしたものが背筋から這い上がってくる。
咥内を侵す卯月さんの舌が気持ちよくて、私はすっかり翻弄されていた。
「……嫌?」
唇が離れた直後に囁かれた声は、どこか不満げな響きを伴っている。
「え……?」
「なんか、奈々、乗り気じゃないから」
軽く目を見張る。
私なりに一生懸命のつもりだったんだけど、どうにも消極的だと思われていたようだった。
「き、緊張でうまく、できなくて」
「………」
疑わしげな表情をされて、重い沈黙が落ちる。
また卯月さんの顔が近づいてきて、こち、と額と額がぶつかった。
探るような瞳は、私の言葉に嘘がないかを判断しているかのようで。
「……あ、あの、わたし」
「………」
「う、受け身、慣れてなくて」
「………え?」
はたり、と卯月さんの瞳が瞬く。
突然のカミングアウトに理解が追い付いていないみたいで、目を丸くして私を見つめている。
変なこと言ってる自覚はあるけれど、本当のことだ。私はいつも、相手を気持ちよくさせてあげる側だったし、そうしてあげるのが好きだったから。
言うならば奉仕系。
最近じゃ、まともな愛撫すらされていない。濡れたらすぐ挿れちゃうのが常だったから。
だから、主導権を相手に握られているこの状況自体、私にとっては慣れない経験だった。
「あの、私、何したらいいですか」
「何って……」
「わ、わかんないの。ほんとに」
言ってるうちにだんだん不安になってきた。
卯月さんに失望されたらどうしよう。
満足してもらえなかったらどうしよう。
もしかしたら、幻滅させちゃうかもしれない。
思えば、初めて抱かれた日もそうだった。
私のペースに持ち越そうとしても、卯月さんはそれに乗ってこない。主導権を握ってるのは自分だと言わんばかりに、私の身体を求めてきた。
身体中にキスの雨を降らせて、指先や唇で私を翻弄する。激しさはあれど、暴力的ではない。
自らの想いをぶつけてくるような触れ方は、今までされたことのない類いのセックスだった。
あの未知な感覚は、今思えば、卯月さんの想いにあてられていたのかと気づく。
私は心のどこかで、セックスはAVの一環だって思っていた部分があった。
相手を気持ちよくさせて、自らも気持ちよくなるためにあるもの。
その認識が間違っていたとは思わないけれど、卯月さんの抱き方は、それに当てはまらなかった。
だから、あんなに動揺したのかもしれない。
快感だけを求めるセックスと、好きな人と肌を通して触れ合うセックスって、全然違う。
気持ちよさから来る幸せと、好きな人に抱かれる幸せも、全然違う。
セックスはコミュニケーションだよね、なんて言っていた少し前の自分が恥ずかしい。
私が望むセックスをしてほしいから、ただ自分のしてほしいことを相手に押し付けてるだけの、一方的なやり方だった。
疎通を図ることは大事だけど、私のやってることはAVとおんなじだ。
本当に恥ずかしい。
どうして今まで気づかなかったんだろう。
雑だって揶揄されても、仕方ないのかもしれない。
どうしよう。
卯月さんに失望されちゃう。
そう思っただけで泣けてくる。
悲しくて悔しくて、瞳に膜が張っていく。
「なんで泣くんだよ」
「う、だって、卯月さんに嫌われる」
「それこそ何でだよ」
腕で涙を拭えば、手首を掴まれた。
そのまま開かされる。
見上げれば、卯月さんの優しい顔がある。愛おしげな瞳で見下ろされて、胸が高鳴りっぱなしだ。
顔が近づいてくる気配に、反射的に瞳を閉じる。
彼の唇が瞼に触れて、目尻に残る涙を舐められた。
「……う、卯月さ……!」
驚きで声が裏返った。
顔に熱が一気に上がる。
「奈々は結構、泣き虫だよな」
小さく笑い声をたてる卯月さんは、何故かとても上機嫌で。
嫌われたらどうしよう、なんて不安に襲われていたのに、結果的には真逆の展開になったようで安堵する。
でも、どうして卯月さんの機嫌がよくなったのかはわからない。聞こうと思って開きかけた口も、結局塞がれて音にならなかった。
「……何もしなくていい」
「……うん」
「俺の事だけ考えてろ」
俺様な態度は相変わらず健在で、彼らしい口振りに 安心してる自分がいる。
ゆっくりと瞳を閉じれば、また唇に熱が落ちた。
卯月さんの手が、バスタオルを解く。
肌を撫でる指先が、卯月さんの唇が、ありとあらゆる場所に触れる。
頬に、顎に、首筋に、耳の裏側。ちゅ、と愛らしいリップ音を奏でながら、卯月さんは私の身体にキスの雨を降らせていく。
決定的な刺激は全然与えられていない。
なのに、息が上がる。
リップ音だけで、耳が犯されている感覚に陥る。
「あ……っ」
その耳に、吐息が掛かる。
生温い感触が輪郭を辿る。
強すぎる刺激に、思わず声が上がった。
「……奈々」
「……っ」
「……好きだ」
耳元で囁かれた告白に胸が熱くなる。
初めて抱かれた時も、今も、卯月さんは言葉で、唇で、全身で私への想いを伝えようとしてくれた。
今ならちゃんとわかる。
セックスがコミュニケーションだって言われる意味。
身体を重ねるって、こういうことなんだ。
首筋から胸元へ、唇が滑っていく。
もどかしいくらいの緩やかな刺激が襲う。
初めて抱かれた時の激しさは、今日はない。
優しい触れ方が嬉しかった。
「卯月さん……」
名前を呼べば、彼の顔が上がる。
目が合って、また唇を重ね合う。
ちゅ、ちゅ、と何度も啄むようなキスを繰り返して、彼の唇が離れていく。
「卯月さん」
「ん?」
「あのね」
「うん」
「なんか、すごく幸せ」
溢れそうな想いを口にする。
「俺も」
即座に返された返事に笑顔が浮かぶ。
胸に甘い感情が広がって、ああ、やっぱりこの人が好きなんだと実感した。
卯月さんの首に両腕を巻き付けて引き寄せる。
私からキスをせがめば、卯月さんも応えてくれる。
深みと激しさを増してくる口付けに、徐々に身体が火照り出す。
私も夢中でキスに応じた。
もっと、たくさん触れたい。
触れてほしい。
訳わかんなくなるくらい、この人に溺れたい。
AVの真似事をしてるんじゃなくて、私は今、好きな人に抱かれてるんだ。
その幸せを噛み締めながら、彼に身を委ねた。
・・・
初めて好きな人と迎えた朝。
疲れきった身体に、早朝の冷えた空気は堪える。
陽の光が眩しい。寒い。
もふもふで温かいくまちゃんを腕に抱えて、私はくわ、と欠伸をした。
「一度帰って、そのまま出社するから」
「はあい……」
部屋を出ようとする卯月さんを、眠気眼のまま見送る。欠伸が止まらなくて、またひとつ。
眠くて眠くて仕方ない。
体が睡眠を欲しているのがわかる。
それもこれも、昨晩の情事が原因だ。
改めて知った、受け身って大変だ。責めるよりも2倍体力が要る。
全身にぐったり襲いかかる疲労感は、それだけ彼に愛された証拠。
でも卯月さんを責める気はなかった。
重い倦怠感すら愛おしく感じる。
卯月さんはこれから自宅マンションに戻って、着替えてから会社に行くみたい。
寝ててもいい、って言われたけど、"今度は"ちゃんと見送ってあげたくて、私は腰を上げた。
彼の帰る気配を感じ取ったのか、くまちゃんも目が覚めたようで、こうして一緒に見送っている。
クゥン、と寂しげな鳴き声に応えるように、卯月さんの手が伸びてきた。
頭を撫でられて、くまちゃんはすっかりご満悦だ。
「私も撫でてください」
「はいはい」
ぐしゃぐしゃと、やや乱暴に撫でられる。
この扱いの違いはどういうこと。
む、と頬を膨らませた私に苦笑しながら、卯月さんの手が離れていく。
「今日、大学は?」
「やすむ……」
こんな状態で行っても、1日中授業を寝て過ごすことになりそうだし。
「帰りにまた寄るから。体、休めとけ」
「うん……」
返事をしながら、こく、と船を漕ぐ。
苦笑混じりの声が頭上から聞こえたと思ったら、卯月さんの手が、今度は私の前髪をかきあげた。
露になった額に、ちゅ、と熱が落ちる。
一瞬で覚醒した。
「う、卯月さ……!」
彼に思う存分愛された身体は、こんな些細な触れあいでも反応を示してしまう。
顔が熱くて、沸騰するかと思った。
「起きたか?」
「なんて起こし方するの……」
「目覚めにいいだろ」
「心臓に悪いよ…………またやってください」
「はいはい」
素直に要望を聞いてくれる卯月さんは大人だ。
「ちゃんと朝飯食えよ」
ぽんぽんと頭を叩いて、卯月さんが部屋を出ようとする。
その背に向かって叫んだ。
「卯月さん、大好き!」
「おい抱き締めたくなるからやめろ。ちゃんと戸締まりして俺の帰り待ってろよ」
「はい、お母さん」
「誰がお母さんだ」
いつも通りのやり取りを交わして、卯月さんは部屋を出ていった。
また1人ぼっちになってしまった空間。
でも、もう独りじゃないから寂しくなかった。
もう一眠りしようかとベッドへ戻る。
くまちゃんを床に降ろして、布団の中に潜り込んだ。
布の端を掴んでめくれば、くまちゃんも潜り込んでくる。
一緒に眠りたいみたいだ。
「……あ」
その時、視界に入ったもの。
床に置いたままのノートに、私は手を伸ばした。
ぺらぺらとページをめくれば、これまで卯月さんに教わった料理の作り方が書き込んである。
そのひとつひとつを、くまちゃんと一緒に眺めていく。
「今日の夕飯はこれにしようか、くまちゃん」
「わうっ」
初めて出会った日に卯月さんが作ってくれた、ナスと挽き肉のナポリタン。
あれ以来、まだ食べていない。
今までは一緒に夕飯を作ることが大半だったけれど、たまには私から先に作っちゃうのもいいかもしれない。
帰ってきたら、どんな顔するかな。
初めて会った日に食べたご飯だって気づいてくれるかな。
喜んでくれるといいな。
期待感を胸に、私は瞳を閉じた。
(了)