#07
人通りの少ない道を、私は今、たったひとりで歩いている。
腕に抱えているのは、少量の荷物。
走り終えたばかりで足取りは重く、息はまだ乱れていた。
薄暗い闇から解放されつつある空には、白い三日月がぽっかりと浮かんでいる。
男と寝た翌朝、頬を撫でる風を受けながらマンションへと戻るこの時間が、私は好きだった。
早朝の通りは人の気配も少なくて、開放的な気分に満たされていた。
それが、いつもの朝だった。
今はとても、そんな気分に浸ることができない。
頭上に浮かぶ月を見上げる余裕もなかった。
放心状態のまま、マンションへと足を踏み入れる。バッグから取り出した鍵で解錠して、部屋の中に入った。
施錠をすれば、カチ、と無機質な音が響く。
その金属音に、すぐさま軽やかな足音が駆けてくる。くまちゃんだ。
おかえり! とでも言いたそうに、可愛い尻尾を振りながら熱烈な出迎えをしてくれる。
その姿を見た途端、私の体から力が抜けた。
へなへなと床に崩れ落ちる。
腕に抱えていた荷物も落ちて、玄関に散乱した。
憔悴しきったご主人様のご様子に、くまちゃんも異変を感じ取ったのだろう。どうしたの? だいじょうぶ? と、オロオロしながら私の周りを盛んに走り回る。前足を私の膝の上に乗せて、必死に顔色を窺おうとする姿がたまらなく可愛い。
でも今の私に、くまちゃんを構ってあげられる余裕は少しも無かった。
それもこれも全て、昨晩のあらぬ事情のせい。
私の心は、すっかり打ちのめされていた。
「……………………うそだ」
愕然としたまま呟いた。
イかされた。
馬鹿みたいに、散々、イかされた。
しかも初めて抱かれる相手に。
この私が。
ありえない。
こんなこと、今まで一度もなかった。
信じがたい事態に頭を抱えたくなる。
今までたくさんの男と寝てきたんだ、絶頂まで追いやられた事がないわけじゃない。
でも、相手は初めて身体を重ねた男の人なのに。
初めての人にイかされた経験は過去になかった。
それが自慢だった訳じゃないけれど、心のどこかで、経験豊富な自分は常に優位に立っている、そんな感覚でいたんだ。
ほとんどの男はセックスが下手くそで、それを互いに探り合いながら、相手を開発していく過程が好きだったのに。
卯月さんのセックスは、おおよそ、私が望んでいるものとは違っていた。
彼はやっぱり最中も口が悪くて、俺様な態度で始終私を翻弄する。自分本意に進めようとするし、私と会話をしようとはしない。
大抵の男は、自分はセックスが上手くて、相手も満足していると思い込んでいる。
顔のいい奴ほどそうだ。
卯月さんもおんなじだった。
なのに。
ものすごく、ものすっごく、気持ちよかった。
自分の身体が、自分じゃないみたいだった。
生まれて初めて、イクのが怖いと思った。
何より卯月さんの情熱がすごかった。
あんなのは、だめだ。
あんなセックスは、知らない。
あんな抱き方はズルい。
自信消失したプライドは、もはやボロボロに崩れ落ちる寸前だ。
目が覚めた時、彼の腕の中にいた。
当たり前だけど互いに裸のままで、私の肩を抱いている卯月さんは、すっかり深く寝入っている。起きそうな気配すらない。
寝室に運ばれてからの経緯を思い出そうとしても、途中から何も思い出せない。意識を飛ばすほど翻弄されたのも初めての経験で、ショックを隠しきれなかった。
ゆっくりと体を起こす。
間近で見る卯月さんの寝顔は意外にあどけなくて、普段が普段なだけに、余計可愛く見えてしまう。
もう、この寝顔を見ることは、おそらく無い。
そう思った私の胸が張り裂けそうなくらい、痛んだ。
「……卯月さん、ありがとう」
最後に、抱いてくれて。
私を抱く腕を避けて、彼の拘束から逃げ出した。
ベッド下に散乱している服を拾い集めて、慎重に着替えていく。物音を立てないように寝室を出た。
リビングに置いたままのコートとバッグを手に取って、周囲をぐるりと見渡してみる。
視界の端に捉えたのは、着替え用に置かせてもらっていた私物の一部。
それらも全部一緒に抱えて、卯月さんのマンションを後にした。
つまり、最悪な形で彼の元から逃げ出してきた。
「……シャワー……浴びなきゃ」
のそりと体を起こして、床に落ちた荷物も拾う。
鉛のように重い体を引きずって、浴室へと足を運んだ。
お湯で汗を洗い流しても、気分は優れない。
気持ちも軽くならない。
思考も全然働かない。
心はずっと、罪悪感で苛まれていた。
シャワーを適当に済ませてから、ナイトウェアに着替える。浴室から出た後、ソファーに身を沈めた。
寝転んでも、眠気は全然来ない。
くまちゃんが心配そうに私を見上げていて、両手を伸ばして、その小さな体を胸に抱き寄せた。
もふ、と鼻先を埋めれば、愛らしい匂いと柔かな感触に、倦怠感が薄れていく。
落ち着きを取り戻した心は、今度は寂しさで埋められた。
誰もいない室内。
卯月さんのいない部屋。
一人ぼっちになって初めて、卯月さんの存在が自分の中で大きかったのだと、今更思い知る。
もともと彼は、一夜限りで遊んでもらいたい相手だったはずだ。
その目的は達成できたんだから、私はもう、卯月さんに会う理由がない。
卯月さんの性格上、私とセフレ関係を築いてくれるとは思えないし、だからもう、彼とはこれきりだ。
その事に、後悔している自分がいた。
「……もっと、卯月さんのこと、考えてあげればよかったなあ」
ぎゅうっと、くまちゃんを抱き締める。
寂しさを紛れさせるみたいに。
心の中にぽっかり空いてしまった穴に、虚しさが押し寄せてすきま風を吹かせていく。
胸が痛くて苦しくて、ぎゅっと瞳を閉じた。
まさか、特別な意味で好意を抱かれているなんて、これっぽっちも思っていなかったんだ。
卯月さんの想いに気づかずに、彼を一晩だけの遊び相手としか考えていなかった自分が酷い悪女に思えてくる。
いや、実際、私が悪い。
一度抱いてもらえたらそれで終わりにしようなんて、なんて虫が良すぎる話だろう。
でも、私だって。
どうしてこんなにも、卯月さんに固執したんだろう。
一度だけ抱いてもらいたい、叶うかどうかもわからないその望みの為に、半年以上も彼と一緒にいる選択をしたのは、他でもない私だ。禁欲までして。
どうして、そこまで我慢できたんだろう。
そう考えて、はたりと疑問が沸く。
我慢、なんて自分はしてただろうか。
少なくとも卯月さんと会ってる間、そんな認識はなかった。
一緒にご飯食べたり、料理を教わったり、くだらない話をして笑ったり、そんな風に過ごす卯月さんとの時間は本当に楽しかった。
毎度抱いてもらえないことに落胆はしていたけれど、それでも、確かに充実してたんだ。
卯月さんのこと、私は好きだと思う。
でもその「好き」は、ライクの方だ。ラブの方じゃない。
そう思ってたのに、いざ別れてしまったら寂しくて寂しくて、なんか、胸が苦しい。
今まで「彼に抱かれたい」という思いばかりが先行して、抱かれた後のことを考えていなかった。
抱かれたら、それは別れを意味してるのに。
抱かれた後で気づくなんて間抜けすぎる。
「……一度だけ、なんて言わなきゃよかった」
言わなかったら、また明日も明後日も、一緒にいられたかもしれないのに。
でも、もう全部遅い。
彼の元から逃げ出してしまった。
部屋に置いたままの私物も、全部抱えて帰ってきてしまった。
絶対に怒ってる。
最低な女だったって思ってるに違いない。
鼻の奥がツンと熱くなる。
こんなはずじゃなかったのに。
綺麗な思い出だけで終わるはずだったのに。
卯月さんを傷つけるつもりもなかったのに。
卯月さん、ごめんなさい。
せめて最後くらい、「手放すのが惜しい」って思ってもらいたかったなあ。
「わう!」
腕の中でくまちゃんが突然吠えた。
伏せていた耳をピンと立てて、尻尾を盛んに振って喜びようを露にしている。
キラキラしたつぶらな瞳が見つめる先には、玄関の扉。
ドクン、と心臓が鳴った。
―――まさか。
胸に沸いて出た疑惑が確信に変わる直前。
ぴんぽん、と部屋のチャイムが鳴った。