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 高校を卒業し、今の会社に入社してから今年で3年目を迎えた。

 出社前の午前8時。ドア掛けミラーに全身を映し、服装の確認をする。レーヨン素材で出来たブラウスは軽やかな風合いで清潔感もあり、どんな場面でも幅広く活用できるから重宝してる。
 Vネックのベーシックニットとも相性がいいし、着心地も抜群。ラメツィードで仕立てたフレアスカートも品があり、緩やかに広がる女性らしいシルエットに仕上がっている。大人女子のトレンドを抑えた、リーズナブルな通勤服といった印象だ。

(……私が可愛かったら、この服ももっと映えていたんだろうけど)

 そんな卑屈めいた感想を抱いてしまうのは、私の性格がひん曲がっているせいかもしれない。

 願掛けとしてずっと伸ばしている黒髪は、今はひとつに纏めている。染めた事は1度もない。
 今どき黒髪ロングなんて重く見えるかもしれないけど、だからって明るくするつもりもない。この黒髪が綺麗だと───"あの人"に褒められたあの日から、私は一度だって髪の手入れを怠った事はないし、弄ったこともない。
 その決意はこの先もずっと、揺らぐことはないだろう。

 ショルダーバッグを手に取って、スマホや財布を入れ忘れていないかを最終チェック。そしてパンプスを履き、慌ただしく部屋を出る。これがいつもの朝の風景だけど、今日は念入りに施錠もチェックしておいた。
 何故なら明日から、待ちに待った週末だからだ。

 今日と、そして週末の2日間。
 私にとっては特別な数日間。
 恐らく今日と明日は、この部屋に帰ることはない。
 2日間も部屋を空けるとなれば、施錠の確認も入念にしておく必要がある。異常がない事を確信してから、私はその場から歩き出した。



 郵便受けを覗けば、ピザ屋や美容院のチラシに混じり、よく利用している店舗のDMが入っている。そのうちの1枚を取りだして、手元に視線を落とした。

『天使ひより様へ』

 そう記載された宛名に、苦々しい記憶が脳内を駆け巡る。自分の名前に嫌悪感を抱く人間なんて、世界中を探しても私ぐらいじゃないだろうか。
 何しろ私は、幼い頃から名前で損をすることが多かったんだ。



 ───天使ひより。
 それが私の名前。
 でも初対面で私の苗字を正しく読めた人は、誰もいない。記憶を遡ってみても、一人も存在しない。
 でも、それも仕方のない話だ。誰だって『天使』と書かれていれば、『てんし』と読むのは当然だ。
 今はキラキラネームなんて言葉が流行っているくらいだし、珍しい名前の人なんて世の中にはたくさんいる。私だけが特別な訳じゃない。
 それでもこの苗字のせいで、私は友達やクラスの同級生から馬鹿にされる事が多かった。

 てんしちゃん、なんて面白おかしく呼ばれて、あまつかと呼んでくれる人は誰もいない。
 それが、どれだけ私を悩ませていたかなんて、きっと誰も知らないし誰も気付いていない。
 変な名前だと何度も言われる不快感。
 後ろ指をさされて笑われる羞恥心。
 名前と顔が一致してない、なんて陰口を囁かれていた事も、私はちゃんと知っている。陰口というのは、嫌でも本人の耳に入ってしまうものだから。
 それが、私の学生時代の記憶。

 名前を呼ばれる度に窮屈な思いをした。心苦しかった。
 それは中学、高校に上がっても変わらず、『やめて』と叫びたい本音を何度押し殺してきただろう。
 ただ、珍しい苗字だったというだけの事で。



 生まれもった名前を変えることはできないし、この名前が嫌いな訳でもない。
 それでも幼かった私には、周りの反応が悪意のないいじめに思えた。傷ついた。

 私は"てんし"じゃないのに。
 "あまつか"なのに。

 だからって親を責めるのも筋違いな気がして、不満も愚痴も泣き言も言えず、全部内に溜め込んだ。
 そうして、"私"という人格が形成された。






 バスを乗り継ぎ、大きなビルのフロントに足を向ける。出社する度に憂鬱な気分に見舞われるけれど、頭を振ることで鬱な気分を追い払う。
 そのままエレベーターに乗り、辿り着いた先は4階。天井から吊り下げられているプレートには『調査課』と表記されている。
 この部署こそが私の仕事場でもあり、鬱を引き起こされる原因にもなっている。

 出社したばかりのオフィス内は、人の賑わいもそこそこだ。黙々とパソコンに向かい合っている人もいれば、数人で集まり盛り上がっている人達もいる。就業時間前の僅かな合間を、それぞれが好きなように、自由に過ごしている。
 けれど和やかな雰囲気は、私が部署に足を踏み入れた瞬間、あっけなく壊れた。

 シン……と場が一瞬静まり、次の瞬間には元通りの光景に戻る。私は誰からも挨拶される事もなく、話しかけられる事もない。
 当然のごとく"居ないもの"と扱われ、今となってはそれが当たり前となっていた。

 自分のデスクにつき、パソコンの電源をつける。
 そのとき不意に感じた、冷ややかな視線。
 背後から聞こえた嘲笑う声は、恐らく私に向けてのものだ。

 でも、私には何も言えない。
 睨み返す事もできない。
 それらに歯向かう勇気も度胸も、残念ながら持ち合わせていない。

 だって、怖いもの。
 無視は、怖い。
 集団で無視してくるこの人達が、怖くて怖くてたまらない。

 暗い学生時代を過ごしてきた私は、社会人になった今でも───社内イジメに近い扱いを、受け続けている。




──────…

───…




 名前でからかわれただけ。
 キッカケはそんな、小さな歪みだった。
 傷つき、嫌だと口にも出せず、内に溜め込んでいく性格は、自分を卑下する事で圧倒的な劣等感を生み出した。
 負の感情は取り返しのつかない程に膨れ上がり、私の世界をゆっくりと壊していく。

 周りの目が怖くて、声を掛けられる度に体が強張って、笑い声が聞こえる度に「自分のことで笑われてるんじゃないか」と疑う日々。
 常に疑心暗鬼で心の休まる暇なんてなくて、私は心身共に疲弊していく。窮屈な箱に、無理やり押し込まれたような息苦しい毎日だった。

 人から向けられる、冷やかしの目。言葉。
 それら全てに目を背け、何も聞こえていない振りをする。

 それだけ。
 それだけが、私の生きる世界だった。




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好きになってくれた人を好きになったら、罠でした。|本編0話
転載先:ムーンライトノベルズ
柚木結衣 ( HP / 拍手 )



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