#16
──────────
───────
「早坂ー、シャワーありがとー」
「おー……、」
目が合った途端、早坂の動きが止まる。
物珍しい顔を向けられて、私は眉をひそめた。
「どしたの」
「……いや、なんでもない。先にベッドで寝てていいよ」
「は!?」
「?」
素っ頓狂な声をあげた私に、今度は早坂が怪訝な表情を浮かべている。
「なんだよ」
「私は床で寝るから!」
「は? 無理。怪我してる人間を固い床で寝かせられるか」
「一晩くらいなら床でも大丈夫だよ」
「駄目だ。骨折してるんだぞ。それに風邪でも引かれたら困る」
「や、でも私はお邪魔させて貰ってる身なのに、私がベッド占領して早坂が床で寝るのは絶対おかしいでしょ」
正論を説いたつもりだった。
けれど本人は至って平然とした顔で、飄々とした態度を貫いている。
「誰が床で寝るって言ったよ」
「……え?」
「俺もベッドで寝ますけど」
「………へ」
ぱち、と瞬きを繰り返す。
思考が急停止した。
私の目がおかしくなければ、確認できるベッドは部屋の中にひとつしかない。
「……一緒に寝るってこと?」
「ちょっと狭くなるけど大丈夫だろ」
「スペースの問題じゃないでしょ!?」
「今度は何だよ」
「だって私達、」
───キスとかしちゃった仲なのに。
口をついて出そうになった言葉を無理やり飲み込む。言ってしまったら最後、この空気がますますおかしくなってしまう気がして口を噤んだ。
早坂と一緒にいた4年間、特別な目線で見たことは一度もない。同じサブマネという立場で働く同僚で、飲み仲間で、親友みたいな間柄で。ただそれだけだったはずなのに。
なんだったら、「一緒のベッドで寝ても何も起こらない自信ある」とすら思っていたのに、今はとてもそんな風に思えない。何とも思っていなかった昨日までならいざ知らず、過剰に意識しまくってる今、早坂と一緒のベッドで眠ることに不安と期待が入り交じる。
でも、そう思っているのは私だけみたいだった。
「早坂、嫌じゃないの? 昨日ベッドに誘ったら、めっちゃ嫌そうな顔してた癖に」
「……別に嫌がってない」
「……あ、そうなの?」
「風呂入るわ」
「え、うん……」
さっさと話を完結させて浴室へ向かってしまった早坂の背を、やりきれない思いで見送る。その姿が視界から消えても、ベッドに潜る勇気は出ない。その場にぺたんと座り込んで、項垂れるように壁に寄り掛かった。
シンと静まり返った室内に、私のため息が零れ落ちる。ひとりで意識して勝手にドキドキして、なんか馬鹿みたいだなあって思った。
早坂にとっては、あれはキスというより人工呼吸に近いようなもの。特別な意味なんかないのに、勝手に勘違いされて意識されても困るよね。
だからもう気にしない。
一緒のベッドで寝るくらい平気。だって私達はただの同期で、親友だもん。何かが起こるなんて、ありえないんだから。
そして10分も経たないうちに早坂はリビングに戻ってきた。時間も時間だし、シャワーだけで済ませてきたらしい。
もう少し心の準備が欲しかったというのに、そんな時間すら与えてくれない。
戸惑いつつもベッドに潜り込めば、壁に取り付けられたスイッチに早坂の手が伸びた。
「電気消すぞ」
「はーい」
「おやすみ」
その言葉を最後に、室内が暗闇に包まれる。早坂が潜り込んできて、距離を取るように端っこへ寄った。
早坂は意識してるのかしてないのか、リビング側に顔を向けて寝転んでいる状態。こっちに顔を向ける訳でもなく、私に背を向けている。それが拒絶の態度に見えてしまって切なくなるなんて、やっぱり、今の私はどうかしてる。
当然シングルベッドだから、2人で寝るとかなり狭い。極限まで端っこに寄ろうと壁側に寝返ったとき、肋骨に壮絶な痛みが走った。
「ぎゃあっ!」
「うわ何だ」
早坂がびっくりして起き上がった。
お腹を抱えながら痛みに悶えている私を見て、小さく溜め息をつく。
「ばか、骨折してる方を下にして寝るなよ」
「だって……」
早坂に顔を向けて眠れる気がしない。
でも背中合わせで眠るのが難しいなら、仰向けになって寝るしかない。ゆっくりと体を半回転させて、ぎゅっと瞳を瞑る。
心なしか早坂に見られているような気がして落ち着かない。鼓動が乱れる。息を吐くにも緊張を伴う。
「……おい」
「……ふぁ!?」
ビビって声が跳ね上がった。
いきなり髪の毛をつんつん引っ張られて、つい瞳を開けてしまう。流れるように視線が横に逸れて、早坂と瞳が合った。
瞬間、頬に熱が集まる。
なんとなく視線は感じていたけれど、こんなに間近から見られているとは思わなかった。息も触れるくらいの至近距離に面食らってしまう。
「な、なにさ」
「早く寝ろって」
「早坂こそ早く寝なよ」
「七瀬が寝たら俺も寝る」
「な、なにそれ。私の寝顔でも鑑賞する気なの」
「そうかもな」
「っ、絶対、早坂より先に寝ないから!」
「それ先に寝ちゃう奴が言うパターンだな」
「いーから早く寝て! 私も寝るから!」
毛布を一気に引っ張って、わざと視界を隠すように顔を覆う。早坂の視線が、布団越しに降り注いでる気がしてたまらなかった。
恥ずかしいのに嫌じゃない、嬉しいけれど気まずい。それは今まで、早坂に対して抱いたことのなかった感情だった。
「……七瀬」
耳の側に声が落ちる。早く寝ろとか人に言っておいて、コイツは本当に私を眠らせる気があるんだろうか。
ゆっくりと顔を覗かせて、恨みがましい視線を早坂に向ける。当の本人は困ったように微笑んで、私を見つめていた。
「……ここにいろよ」
「……は、」
「明日出ていく必要ないだろ。行く当てが見つかるまでここにいればいい」
「……や、でも迷惑……」
「……迷惑かけると思ってんなら、夕飯とか作って。無理しない程度に」
「え……飯炊き?」
それなら、できなくはないけれど。
居候する代わりに私ができること。
その条件を提示されれば、反論も何もできなくなる。
行く当てなんてどこにもなくて、正直参っていたところだ。
「……ほんとにいいの?」
「七瀬が嫌じゃなければ、俺はいいよ」
「……私だって嫌じゃ、ないよ」
感謝こそしてるけど、嫌だなんて思っていない。
それでも迷惑をかけてしまうことには変わりないし、やっぱり独り暮らしをしている男の部屋に連泊するのはどうなのかな、という思いもあって。
「念の為に聞くけど。早坂クン、ほんとに君、彼女とかいないの?」
「なんだよ急に」
「もしいるなら言って。彼女持ちの男の部屋に泊まる訳にはいかないから」
なんて言いながら既視感。
昨日、私の部屋の前で交わした、早坂との会話と同じ。
「いない」
「あ、そう……」
味気ない返答に、ほっと安堵している自分がいる。『気になる人は?』そう口をついて出そうになった言葉を無理やり飲み込んだ。
その答えを聞いてしまったら、なんとなく、自分が傷付く予感がしたから。
なのに。
「気になる奴はいるけど」
早坂が自らブッこんできた。
「……え、あ、そうなの?」
「ん」
「え、えー、全然知らなかったよ」
無理しようとすると、つい笑って誤魔化そうとするのは私の悪い癖だ。でも多分、今の私はちゃんと笑えていない。言葉にできないモヤモヤ感が胸に広がって、虚しい気持ちだけが込み上げてくる。虚無感……いや、これは違う。喪失感だ。
私の隣にはいつも早坂がいて、そして早坂の隣にも私がいた。
仕事でもプライベートでも、共に過ごすことが多かった早坂のことを、誰よりも一番知り尽くしているのは私だと、何の根拠もないくせに勝手に思い込んでいたんだ。
でも実際はそうじゃなかった。
気になっている人がいたなんて知らなかったし、そんな話を本人から聞いたことすらない。私でも知らない、早坂の近くにいる女の存在を、今日、こんな形で知りたくはなかった。
ただでさえ今は心が弱っていて、早坂の存在が心の拠り所だと思っていた矢先に突き付けられた事実は、精神的にキツいものがある。見捨てられたような気分に苛まれて悲しくなる。早坂にそんな意思がなかったとしても。
「……ええと、私の知ってる人?」
早坂が自ら暴露した告白に、どこまで踏み込んでいいものかもわからない。聞きたくないのに気になって、訊いてしまう心理に逆らえなかった。
「七瀬も知ってるヤツだよ」
「……あ、そうなんだ」
そして『聞かなきゃよかった』と後悔する。
もし私の知らない人だったら、まだ救われた。
私も知ってる人で、早坂に近い異性の存在なんて限られている。職場の誰か、だ。
「……かなえちゃん、可愛いしいい子だもんね」
「ちげーわ。鈴原じゃない」
「えっ違うの」
「さすがに未成年はないだろ」
「え、でも……」
他に思い付く人なんていないのに。
私達のいる職場は全員が女性スタッフだ。でも平均年齢は30代で、ほぼ全員が家庭を持っている。
既に旦那がいる女性スタッフに好意を寄せていたとしても、それを安易に他人に打ち明けるような真似は、早坂はしないと思う。
それに、
『七瀬も知ってるヤツだよ』
その軽い言い方から考えれば、相手は相当、フランクな付き合い方をしてる人じゃないのかな。
真面目で誠実な早坂は、スタッフ達にも丁寧な姿勢で接する事が多い。分析すればするだけ、早坂が好意を寄せる程のスタッフが職場にいるとは思えなかった。
でも、相手は私も知っている人だと早坂は言う。
だとしたらやっぱり、職場の人だ。早坂のプライベートで付き合いのある人なんて、私は当然知らないし。
「え、誰だろ。かなえちゃん以外にいる?」
「………いるだろ。まだ」
神妙な顔つきで私を見る早坂を見返した時、頭の中にふと、ある特定の人物が浮かんだ。
「……菅原エリアか」
「男じゃん」
「応援するぞ」
「俺ホモじゃねーよ」
ですよね。そう切り返してから毛布を引っ張って瞳を閉じる。考えてもわからないものは考えても仕方ないし、その相手を知りたくない気持ちも強くて、茶化す事で話を濁した。
「……早坂。やっぱり私、此処にいられないや」
「……は?」
「気になる人がいるんでしょ。怪我してるからって理由で、恋人でもない女を部屋に住まわせたらダメだと思う。お人好しすぎるよ」
「………」
「だから、明日出ていくね」
「……七瀬、俺は」
「おやすみー」
何か言いたげな早坂を無視して顔を逸らす。本当は背中を向けたいけど、肋骨が痛んで寝返りが打てないから仕方ない。
強制的に話を終わらせた私に、早坂はしばらく黙り込んでいたけれど、一呼吸置いてから「おやすみ」と静かな声が返ってきた。
もぞ、と布団が擦れる音がして、背を向けられたのだと悟る。
こんなに近くにいるのに、近くにいた筈なのに、初めて早坂の存在が遠く感じた。
失恋したわけでもないのに胸が痛い。
心が弱っていた時に、一番仲の良かった同期に助けられて優しくされたから、自惚れていたのかもしれない。
自分でも気づかない内に早坂が大きな存在になっていて、早坂自身も私のことを、大きな存在として見てくれていた、なんて。
そんなわけ、なかったよね。