#15
「……え、なに急に?」
「……とりあえず此処から出て、どこかに寄ろう。明るい場所で話がしたい」
「話?」
「話したいことがあるって言っただろ」
「……あ」
そういえば、そんな事言ってたな。
診察室に入る前に交わした会話を思い出す。
その内容を、私はまだ聞かされていない。
でも後で話してくれるようだし、急かす必要もないだろう。さっきのビックリ発言も早坂なりの考えがあっての提案だろうし、話してくれた時に聞けばいい……よね?
……だめだ。疲れすぎて思考が全然働かない。
「それより、少し寝てろ。すげえ疲れた顔してる」
「バレてましたか」
「何年一緒にいると思ってんだよ」
「あー……うん、ごめんちょっと寝る」
「着いたら起こすから」
「うん」
「変な寝方すんなよ。また折るぞ」
「やめて怖い」
ゆっくりと車が発進して、ネオンの光瞬く大通りへ進路を変える。車窓から通り過ぎる光景をぼんやり眺めていると、数時間前の出来事が嘘のような安堵感に包まれる。
早坂は相変わらず口数が少なくて、私は疲労からか喋る気力がなくて、でも不思議とぎこち悪さを感じない。心の中はずっと、穏やかなままだ。
早く休みたい気持ちもあったけど、早坂と一緒にいられるなら、多少の疲れや眠気なんて我慢できる。
なんて思っていたけど、休んでいいと言われた安心からか、急激に睡魔が襲ってきた。
程よい車の揺れが、眠気を誘う。
うつらうつらと舟を漕ぎ始めた私に、隣から小さな笑い声が聞こえた。
ぽんぽんと頭を優しく撫でられて、その心地よさと手のひらの温かさに誘われて、私は意識を半分手離した。
薄れゆく意識の中で自覚する。早坂の存在が今、私の心の拠り所になっていることを。
誰よりも心許せる存在だと気付かされた今、私の中で確実に、彼は『親友』や『同期』の枠を飛び越えようとしていた。
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───────
「ねえ、ちょっと待って早坂」
マンションの一室。カチ、と無機質な音が響き、目の前のドアが開く。早坂の手には、コンビニで購入したものが詰まったレジ袋がひとつ。
その腕を引き留めるように、くいくいと引っ張った。
「私まだ納得してないんだけど」
「さっき話し合って決めただろ」
「ねー、漫喫で一泊するから大丈夫だって」
「あんなとこで休めるわけ無いだろ。大体七瀬、その顔で行くつもりか?」
「う」
早坂の言うことは、もっともだ。今の私は化粧落ちまくりだし、頭に包帯ぐるぐるだし、殴られた痣も目立つし、なんとも無様な外見へと成り果てている。こんな有り様で満喫に行こうものなら、怪我人か変質者だと勘違いされて警察を呼ばれても文句言えない。
でも、だからって今の状況に納得するわけにもいかない。
急病センターから出た後、向かった先は早坂の住むマンション。その近くにあるコンビニの駐車場に、早坂は車を停めた。
私が目を覚ましたのはその時で、目の前に広がる見知らぬ風景に驚いたのも致し方ない。更に「俺んとこ来る?」とか、すました顔で誘われていた事も思い出して血の気が引いた。
仮眠を取ったお陰で明確になった意識は、あの発言の重大さを今更ながらに自覚する。恋人の存在はいないと聞いていたけれど、だからって男が一人で暮らししているマンションに、怪我を負っている訳ありの女が転がり込むのはどうなのか。
私だって昨日、酔った勢いで早坂を部屋に泊めたけど、昨日と今日とでは状況が全然違う。
そこから話は急展開を迎える。
まず私のスマホや財布は、意外にも早坂が所持していた。あの部屋から出る際に、床に落ちていたスマホを拾ってくれたらしい。
財布の入ったショルダーバッグと部屋の鍵も渡されて、改めて早坂という人間の素晴らしさを実感した。もう神として拝めたいレベル。
そして、警察に被害届を出すかどうか。
暴行や傷害事件は、被害を受けた傷が残っているうちに訴えた方がいいと聞く。青木さんには妻子がいるし、問題が露呈するくらいなら被害届は出さないつもりだと伝えたけれど、早坂は首を縦に振らなかった。
「よく考えた方がいい。向こうは、七瀬の住んでいる場所も連絡先も把握してる。警察に訴えを出さないなら、こっちは1人で、常に受け身で構えていなきゃいけない。精神的にキツいぞ」
「……うん」
「大体な。衝動的とはいえ、冷静さに欠けて女に暴力振るう奴は何度も同じことを繰り返すんだよ。またアイツが接触してくるなら、今回と同じようなことが起きても不思議じゃない。確かに向こうの妻子に罪はないけど、だからって、七瀬が泣き寝入りしなきゃいけないことなのか?」
「………」
正論すぎてぐうの音も出なかったよね。
「もし警察が第三者で関わってくれれば、最低限の近辺は守って貰えるかもしれないし、話し合いの場にも立ち入ってくれるかもしれない。まあ実際、警察がそこまで動いてくれるかはわからないけれど」
「……早坂」
「何」
「青木さんのお子ちゃん、まだ8歳なんだって」
「……は?」
突然の話題転換に、早坂の眉が寄る。
だから何だ、とでも言いたげなその瞳を、私は真っ直ぐに見据えた。
「8歳。ピカピカの小学2年生だよ。学校に行けば大好きな友達がいて、一緒に勉強して一緒に遊んで。家に帰れば、大好きなパパとママがいる生活。友達と家族に囲まれて毎日幸せ。ハッピーだね」
「………」
「私が青木さんを訴えるという事は、その子のパパを一生、犯罪者扱いにしてしまうという事」
「………」
「早坂が同じ立場だったら、できるの?」
「……それは」
「私には無理。その子が可哀想」
一番悪いのは、誰なのか。
内密に不倫行為をしていた私と青木さんだ。
子供には何の関係もない。奥さんにも。
私達が犯した過ちに、子供や奥さんを巻き込んじゃいけない。穏便に済まそうとしてるこの考えこそが卑しくて、甘ったれた言い訳だと罵られたとしても構わない。
「私は、青木さんがちゃんと反省して、私と別れて家族の元に戻ってくれればいいの。その子の父親を犯罪者にしたい訳じゃない。だから警察には行かない。おっけ?」
「……わかった。悪い、無神経だった」
「早坂がね、私の身を案じてくれてるのはちゃんとわかってるよ。ありがとね」
そんな会話を車内で交わした。
警察に被害届は出さない理由を、早坂は渋々ながらも納得してくれた。でも、そうなると新たな問題が発生してくる。今後の青木さんとの向き合い方だ。
話し合いは、続けたいと思ってる。絶対に別れなきゃいけないし、互いに納得した上で別れたいから。
それに、暴力を振るった青木さんが全部悪いのかと聞かれれば、実のところそうでもない。私もつい頭に血が上って、酷いことを言ってしまった記憶がある。
私が冷静さを失わないでいれば、こんな怪我を負う結果にはならなかったのかもしれない。私にも反省は必要だし、態度を改めなきゃいけない部分はある。
でも、そう思っているのが私だけだったとしたら?
私達はしばらく距離を置いて、冷静になる時間が必要だと思う。でも、青木さんも私と同じように考えているとは限らない。
それに早坂の言う通り、一度でも暴力を振るった人間はまた暴力を繰り返すタイプもいる。その手のニュースやゴシップ記事なんて、もう何度も目にしてきた。
だから、今はまだ会えない。
また殴られるのは嫌だし、何より心があの人を拒絶してる。殴られた記憶が蘇って、体が強張ってしまう。
今会ったとしても、恐怖が先だってちゃんと話せる気がしない。こんな状態で会う訳にはいかない。
だけど、向こうは私の住まいも電話番号も、ちなみに勤務先も知っている。仕事をしているのは向こうも同じだから、真っ昼間から職場に現れることはないだろうけど、問題は勤務後だ。帰り道やマンションで待ち伏せされる可能性だってあるんだ。
1日2日で解決できる問題じゃない以上、友人の家に長期間泊めてもらうことなんてできない。ビジホはお金が掛かる。あの部屋を解約するにも時間と手間が掛かる。実家は遠い。八方塞がりだ。
だから早坂は私に提案してきたんだ。自分の部屋を避難先にすればいい、と。
そうして今に至る。
「ねえ、わたし絶対迷惑かける」
「迷惑ならいつもかけられてる。酔って絡まれた時に」
「今は酔ってないでしょ! とにかく、泊まるのは今日だけね。明日からは自分でどうにかするから。なんなら店泊するから」
「………」
「そこで黙んないでー」
「……とりあえず中に入れ。寒い」
「うっす……」
明日からどうするかはともかく、今日の寝る場所は一応確保できた。
なんだか一方的に話を進められてしまった感が否めないけれど、今から泊まれる場所を探すなんて無理だし、渋々部屋に足を踏み入れる。思えば早坂の部屋に来るのは、今日が初めてだ。
見慣れない部屋の光景に気分が舞い上がる。
初めて訪れる場所に来てワクワクする、あの高揚感と同じ。
「わー、なんか早坂らしい部屋だね」
「どんな部屋だよ」
「無印良品ぽい」
「褒めてる?」
「褒めてる褒めてる。さすがインテリアショップのサブマネだね」
早坂の部屋は、一言で言うならクールモダンな印象だ。無駄な装飾品を省き、家具はモノトーン調で揃えて生活感を抑えている。ぽつぽつと置かれた観葉植物が、クールな内装に温かさをプラスしている感じ。
ローテーブルは艶のあるブラックガラス。映し出すものを綺麗に反射させ、重厚感と高級感を作り出している。壁絵画時計がまたお洒落な空間を生み出して、センスを感じさせた。
その短針は既に1時を回っている。
「先に入れよ」
ひとり鑑賞会に浸っていた私に、早坂は上着をハンガーに掛けながらそう告げた。
顎をしゃくる先は、浴室だ。
「え……先にいいの?」
「いーよ。でもシャワーだけな。風呂には入るなよ」
「うん」
いいのかな? と一瞬躊躇ったけど、折角のご厚意なので素直に従っておく。骨折してるから入浴は無理だけど、軽くシャワーを浴びる程度なら許可されている。タオルを借りた後は浴室に入り、ささっと済ませてから身体を拭いた。
早坂の部屋に来る前に、必要最低限の物だけはコンビニで買っておいた。でもさすがに服だけはどうにもならなくて、仕方なく借りたシャツに袖を通す。
当然サイズは違うから、手の甲が隠れてしまう。袖口を2回くるくるして捲し上げれば、ふわっと柔軟剤の香りが漂う。
「あー、これ彼シャツ……彼氏じゃないけど……」
そうだ、早坂は彼氏じゃない。
なのに彼氏でもない人のシャツを、風呂上がりに着ているなんて正直複雑だ。
少し前の自分なら、恋人以外の男の服を着るなんて絶対に無理だと思っていたのに。状況的に仕方ないとはいえ、早坂なら平気だと思ってしまった自分は一体何なんだろう。あまつさえ、自分からキスまで許してしまった。
その上部屋に泊まるとか、色々大丈夫か。
勿論早坂が何かをするなんて思ってないけど、でも、何かの拍子でタガが外れてもおかしくないようなフラグが私に立っている。私に、だ。
変に早坂を意識し過ぎている自分がいる。
「……やばい、私やらかした??」
キスされただけで意識するとか可愛くない?
今時、中学生でもこんなに意識しないでしょ。
早坂のキスが、頭から離れない。