#05
「あー……まあ、あの人ですね」
「メール?」
「うん。ちゃんと会って話し合おう、ってさ。勝手だよね~もう話し合うことなんてないのにね~」
「……大丈夫か?」
「え、何が? 全然大丈夫よー余裕余裕。ぶいっ」
調子づいてVサインなんてかましてみる。
でも、本当は全然余裕ない。
マジで会いに来るとか嫌すぎる。逃げたい。
でも無理に強がっていないと、平常心を保てなくなりそうで怖い。職場にプライベートは持ち込みたくないし、公私混同も避けたい。だから私は大丈夫だって、気丈を振る舞うことしかできない。
相手に情は一切ない、早坂にはそう言った。
けど、全部無くなった訳じゃない。
もちろん恋愛的な意味ではなくて、裏切られた事に対する負の感情が、いまだに胸の奥にこびりついているから。
あの人から連絡が来る度に襲う、酷い倦怠感。
鬱になってしまうのは、酷い裏切られ方と別れ方をしたせいだ。
私だって女だし、もう26歳だ。好きな人と4年も交際が続けば、さすがに結婚の事だって考える。好きな男との子供が欲しいって、そう願ってしまうのは女の本能だ。
なのに、本気で結婚を考えていた相手は、既に別の女と結婚していた。
私が夢見ていた子供も、別の女と育んでいた。
それを本人から知らされた時の、惨めさといったらない。自分だけが何も知らずにいた羞恥と、心を抉られる程の痛み、そして男に対する憤りが私を支配しようとする。
こんな風に、人は変わってしまうんだろうな。
人から裏切られて、誰の事も信用できなくなってしまうんだろう。
でも、私はそこまで堕ちたくはない。
真実を知った時はすごく傷ついたし糞ほど泣いたけど、時間が経つと共に心の傷は癒えてくる。そうすれば自然と、前向きな考えができるようになってきた。
これから何十年と続く私の長い人生の中で、青木さんと一緒の時間を過ごしたのは、そのうちの、たった4年だけだ。
この僅か4年ぼっちに、これからの人生まで振り回される必要なんてない。今はそう思えるようになった。
彼に別れを告げて、半年が経った。
私だっていい加減、ちゃんと前に進みたい。
過去は過去だって振り切って、新しい恋と向き合いたい。
その為には青木さんとの関係を断ち切らなきゃいけなくて、なのにあの人は、いまだに私と別れるのが嫌だと言う。まだ繋がっていたいとか離れたくないとか、馬鹿げたことをぬかすんだ。
一体どこまで私を侮辱すれば気が済むんだろう。
いい加減頭にはきてるけど、そんな怒りをスタッフの前で晒す訳にはいかない。勿論、早坂の前でも。
だから笑ってその場をやり過ごそうとしたのに、早坂はそれを良しとはしなかった。
「……なあ、今までそいつと何回、話し合いした?」
「え、えー……と、10回くらいかな?」
「電話で?」
「うん」
「……あのさ、余計なお世話かもしれないけど。話し合う努力もしてるのに、半年掛かっても同じ会話の繰り返しなら、もう2人で解決するとか無理じゃないか? 話し合うにしても、立会人がいた方が良くないか?」
「………」
早坂の言ってることは、痛いくらいにわかる。私は別れたくて、でも相手は別れたくなくて、お互いに主張を曲げられないままでは話し合いにもならない。
冷静に話し合える場を設けてくれて、客観的な視点から意見をくれる人と、判断を下してくれる人が必要だって。
でもそうなると、「立会人って、誰に?」って話になってくる。
青木さんと交際を、私は誰にも話していない。
自分の恋愛事情を明け透けに話すのは苦手だし、青木さんが周囲に明かすことを躊躇したからだ。
彼が勤めるのは、東証一部上場企業の業界最大手と言われる、超がつくほど有名な会社だ。そして青木さんは、その会社の第一線で働く営業マン。もし彼に変な噂が立てば、出世の道が遠退く危険性がある。
やるからにはトップを目指したい、そう告げた青木さんを応援したかったから、私は付き合ってる人がいることを周りに黙っていたし、彼が多忙で会えなくても我慢した。
今思えば、私の存在を奥さんや会社の人達に知られたくなかったから、適当な理由をつけて私に口止めしたのだろう。やり方が狡猾すぎて、本当に腹立たしい。
とにかく、私が青木さんと付き合っていた過去を知る人は、早坂以外にはいない。それに今更、誰にも明かすこともできない。
「実は不倫してました。相手と離れたいのに別れてくれなくて困ってます」なんて、家族や友人に言えるわけがない。当然、スタッフにも。
「俺が立ち会うか?」
「いやいやいやダメ、それは絶対ダメ」
確かに早坂がいてくれたら超心強いけど、これ以上迷惑を掛けるわけにはいかない。
それに、いくら男友達、同じ職場で働く同僚だからといって、不倫相手との話し合いの場に男を連れてくるのは、とてつもなくヤバイ気がする。
「早坂は心配しすぎ! 大丈夫だよ、青木さんももしかしたら、そろそろ潮時かなーくらいには思ってるかもしれないし」
「……俺は、そうは思えないけど。何度も話してるのに、別れてくれないんだろ? 最近連絡がしつこいって昨日言ってたけど、それってさ、相手も余裕なくなってきてるって事じゃないのか? だとしたら余計に、2人だけで会うのはやめた方がいいと思うけど。切羽詰まった人間ほど、何をするかわからないぞ」
早坂の言葉にはた、と瞬きを落とす。
不穏な響きを纏った警告に、胸がざわざわと騒ぎ出す。
確かに余裕のない人間ほど怖いものはないけれど、でも、相手はあの青木さんだ。
穏やかな人柄と柔らかな物腰がセットになってついてくるような人が、キャラ崩壊するところなんて、全く想像できないんだけど……。
「んー……まあ、肝に命じとく」
「で、どーすんだよ。会うのか?」
「そうなるのかなー……このままズルズル長引かせる訳にもいかないしね。あーやだやだ。なんで不倫なんかしちゃったんだろう」
本当にね。
なんで不倫しちゃったんだろう、なんて捨て台詞を、なんでこの場で口走っちゃったんだろう。
本当に切羽詰まっているのは、私の方かもしれない。事務所の外で、そっと聞き耳を立てていた小さな存在に、今の今までずっと気付かなかったんだから。
「……えっ、」
戸惑いに震えた声が、背後から聞こえた。
思わずビクッと肩が跳ねる。
ぐるんっと入口を振り向いた先に、大きな目を見開いて私達を交互に見やる、女の子の姿があった。
「な、七瀬さん……ふ、不倫って何……え?」
「……わーお」
「………」
隣で早坂が頭を抱えてる。
どうやら、あの場から逃亡を図ったらしいかなえちゃんに、話の内容を知られてしまったみたいだ。