#04
一晩で雪が解け、剥き出しになったアスファルトにブーツの音が鳴り響く。寒空に冷える午前8時、従業員用の扉から店内へと足を踏み入れた。
機械にタイムカードを通して事務所に入れば、暖かな空気に包まれて幸せな気分になる。誰かが先に来て、暖房を入れてくれたのだと悟った。
それが誰なのか、私はもう知っている。
というか、1人しかいないので。
「……今日も早いなあ早坂」
早朝、まだ日が昇りきらない時間帯にタクシーを呼び、さっさと自宅マンションに戻っていった早坂マネにぬかりなし。誰よりも先に出勤して、細々とした事務作業を淡々と片付けているのが早坂という男だ。まさか今日も早いとは思わなかったけど。
雑務なんて私に任せてくれて構わないのに、「七瀬の負担が減るだろ」なんて言いながら、いつも私がするべき業務の半分を担ってくれる。
そのお陰で私は時間に余裕が出来て、売り場に顔を出せるようになった。スタッフのフォローもできるようになったし、お客さんからの生の声を、直接聞けるようになった。
早坂がこの店舗に来て早4年、売上の数字もいい感じに保ってるし、スタッフ全員の接客スキルを上げたことでクレームが激変した。本当に良い事づくめだ。早坂には感謝でしかない。
後で会ったらアイツに両手合わせとこ……なんて思いつつ、ロッカー置き場へと向かう。その場には既に人だかりが出来ていて、楽しそうに談笑している光景が目に映った。
「おはよー」
「あっ、おはようございます七瀬先輩」
「おはよう七瀬さん」
「おはよーサブマネ」
振り向いた子達が、思い思いの呼び名で挨拶する。私の呼び名に関しては一貫性がなく、同期の子達はサブマネ呼びだったりするし、パートの子達はさん付けだったり先輩呼びだったり、人によって様々だ。
呼び名に拘りがないので自由にさせてるけど、本部の人間が監査に来た時だけは、サブマネで呼ぶように指示を出している。会社にそういう規律があるから仕方ないけれど、私自身、サブマネとか店長と呼ばれるのは、正直苦手だ。他人行儀な気がして抵抗感がある。
上下関係に厳しくなく、アットホームな雰囲気がうちの長所でもある……と、私は思ってる。だから、本部の社員がいない時は呼びやすい名前でどうぞって感じ。早坂もそんな感じだ。
「みんなで何の話してたの?」
「七瀬さんっ、男女の友情って成立すると思います!?」
集団の中から、小柄な体が勢いよく飛び出した。
真剣な表情で私に詰め寄るのは、ショートボブがよく似合うちっちゃい女の子。鈴原かなえちゃん19歳。
スタッフの中では一番の最年少だけど、人はなかなか見かけによらない。かなえちゃんは記憶力が抜群に優れていて、1回教えただけでほぼ全部飲み込んでしまう。更に言えば接客も上手で、お客さんの顔もすぐに覚えちゃうから常連さんとも仲良しだ。
基本事項の挨拶もちゃんと出来るし(挨拶出来ない子多いんだよね)、いつも元気で明るいキャラのお陰もあって、スタッフのみんなに可愛がられている。
どんな仕事にも真摯に取り組む真面目な性格で、そして確認を怠らないからミスが少ない。ハキハキとした態度も好意的だし、早坂と私の中で、次期サブマネ最優候補者1位は間違いなくこの子だ。この若さでこの出来は素晴らしいの一言に限る。
そんなかなえちゃんも、やっぱり女の子らしい一面を持っているんだなあ、と改めて思い知った。
キラキラした眼差しで私を見上げるその顔は、まさにガールズトーク大好きな女子のそれだ。
「私の意見なんか聞いて参考になる?」
苦笑混じりに呟けば、周りにいた子達の頬が一斉に緩み始めた。口元にいやらしい笑みを浮かべて、意味ありげにアイコンタクトを交わしている。
「えー、だって……ねえ?」
「七瀬さんはやっぱり……ねえ?」
含みを持たせた言い方に、苦笑いを浮かべる。
その、いかにもな物言いは何度も聞き慣れたもので、その会話の裏に示すものは、早坂との事だろう。
確かに私と早坂は仲がいい。
立場上、一緒にいる時間も多い。
残業する時は当然2人きりだし、その後は一緒に飲みに行ってることも、スタッフ全員が知っている。
だからって別にやましい事なんてないし、それは彼女達もちゃんとわかってる。私と早坂がデキている、なんて本気で思ってる子なんていない。
ただ、「むしろ何かがあってほしい!」というのが、彼女達の本音だろう。
しかし残念ながら、その期待には応えてあげられないんだな。
「私はねー、男女の友情は成立する派なんだよねー」
ひやかされるのはわかってるけど、この楽しげな雰囲気を壊すのも嫌だし、とりあえず話に乗ってみる。
えー、と周りがざわめく中、かなえちゃんが更に私に詰め寄った。
「そうなんですか!? 七瀬さんと早坂さん、すごくいいコンビなのに! 恋人同士にはならないんですか!?」
うわ直球で来たなこの子。
さすがの私も一瞬固まる。逆に周りは「かなえちゃん攻めすぎ!」なんて言いながら、むしろ「もっとやれ」的な態度で場を盛り上げようとする。こんな状況で、
「早坂クンは昨日、私のお部屋に泊まりました♪」
なんて爆弾を投下したらどうなるんだろう。
1ヶ月くらい、この話題が尽きないだろうな。これは言えない。
「逆に聞くけど、かなえちゃんは早坂マネのこと、どう思っているのカナー?」
私だって、やられっぱなしではない。ひやかしの対処法くらいわかってる。自分にされた質問を、相手に返すだけの簡単なお仕事だ。
ほら、急にネタを振られたかなえちゃんは、案の定動揺してる。
「えっ、え!? 私ですか!?」
「かなえちゃんくらいの年だったら、早坂マネみたいな大人は魅力的に見えるんじゃない?」
「そ、そりゃ、早坂さんはイケメンだし、優しいし、すごく頼りになるけど」
「お? 結構気になってる感じだね?」
私からのトドメをくらったかなえちゃんは、このあたりから大いにテンパり始めた。
そして、そんなかなえちゃんの様子をいじらないで見守ってあげる優しいスタッフは、残念ながらこの場に1人もいない。私も含めて。
「え、ちょっとかなえちゃん!? そうだったの!?」
「ちっ、違いますよ! わ、わたしは、ダメ男が好きなんです!! 早坂さんみたいな真面目で完璧な人は、むしろ理想とは真逆のタイプっていうか!!」
「とか言って本当は~??」
「もうっ、七瀬さん!! からかわないでください!!」
かなえちゃん、顔文字で言えば(><)みたいな顔で精一杯否定してるけど、その態度は逆に怪しく見えることに、恐らく彼女は気づいていない。
いやあ、可愛いね19歳。初々しくて、お姉さん胸キュンだよ。
私のせいでひやかしの餌食になってしまったかなえちゃんと、スタッフ達の笑い声が室内に響いている。依然として賑わいを見せる彼女達の輪から離れて、私は事務所へと足を向けた。
皆とダベってる時間は楽しいけれど、そろそろ仕事モードに切り替えなければならない。
ネームプレートを首に掛けてから事務所に戻れば、パソコンと向き合っている早坂の姿があった。
「2度目まして早坂。なむなむ」
「俺は仏像か?」
「早坂がこの店に来てからいい事づくめだから、手合わせとこうと思って」
「なんだそれ。ていうか、早朝に起こしちまって悪いな」
「あんなに急いで帰らなくてもよかったのに。朝ご飯くらい用意できたよ?」
「のんびりしてたら出勤遅れるし」
「そう?」
「あとロッカー室の会話、こっちにまで丸聞こえだったんだけど」
「あらま」
ロッカーの置き場所と事務所までの距離は、実はさほど遠くない。騒げば自然と、会話の内容も耳に入ってしまう。
丸聞こえということは、つまり私がかなえちゃんをからかった内容まで、早坂には筒抜けだったということだ。
「かなえちゃんどうですか。いい子ですよ」
「鈴原はいい女すぎて、俺にはもったいねえわ」
冗談混じりに呟きながら、早坂の指が淡々とキーボードを叩く。その態度を見る限り、気にしている風に見えなくて安堵する。
早坂自身、自分が話のネタにされるのはもう慣れてるし、割り切ってる部分もあるんだろう。全員が女性スタッフだし、唯一男性スタッフでもある早坂がネタに上げられやすいのは、ある意味仕方ないのかもしれない。
でも、本人にとってはあまり、いい気分ではないんだろうな。
「控えるように言っておこうか?」
「いいよ別に。開店中だけ声抑えてくれれば」
「んー、わかった……本部から何か来てる?」
椅子に座ってる早坂の横から、ノートパソコンを覗き込む。メールボックスが表示されている画面には、本部と菅原マネからのメールが数件届いていた。
最初に目についた件名は【商品回収の件について】。
「回収指示?」
「先日、新商品で入荷したコンパクトミラーあっただろ。あれの回収指示」
「なんで回収になったの?」
「パッケージの文字が商品に付着してたらしい」
「あー、それはアウトだね」
私が頷けば、早坂も納得してるように頷く。神経質なお客さんの場合、ほんの僅かな汚れや色褪せでも気にするし、人によっては酷いクレームになりかねない。今やSNSが発達して、誰もが世界中に情報発信しやすくなったから注意が必要だ。
どんな話題もネットで拡散されやすい時代だから、店の悪い噂が立てば、すぐにでも潰されてしまう。それくらいネットの声は驚異で、影響力は絶大だ。だから常に、ネット上の評価や口コミに関しては神経を使う。
「もう売り場から全部回収しておいた」
そして仕事が早い早坂マネである。
「ありがとー助かる」
「他にも本部から指示来てるから俺やっとくわ」
「うん。発注パソコンとiPadのマスター更新は私がやっておくね……ん?」
iPadを取ろうとしていた手が止まる。
ポケットに入れたままのスマホが震えていている事に気づいたからだ。
手に取ってタップすれば、1件のショートメールを受信していた。
【遥、やっぱりちゃんと会って話し合おう。今日、仕事終わったら部屋に行くから】
「……まじかよ」
その一文を見た途端、気分が一気に降下する。
それは紛れもなく、青木さんからのメッセージだったから。
別れてからLINEもブロックしたし、相手の連絡先も消去した。でも青木さんは私の電話番号も、ちなみに言えば住んでる場所も知っている。
着信拒否すれば今度は会いに来るだろうし、話し合いが必要なら、会って話すより電話の方が精神的負担は僅かに軽い。会うのは嫌だ。
大体話し合うって、これ以上何を話し合う気だ。これでもう何度目なのか。
妻子がいると知った時に、直接会って別れは告げた。以降は会わないように徹底してる。
それでも引き下がらない青木さんに、電話で何度も思いは伝えた。青木さんの家庭を壊す覚悟がない、奥さんと子供を大事にしてほしい、もう関わりたくない、ただ別れて欲しい、と。
本当は電話だってしたくない相手だけど、ちゃんと解決させなきゃいけない事だから我慢した。それを、相手が全然理解してくれない。
ここまで懲りないとなると、もう電話での話し合いは無理かもしれない。
直接会うしかないのかな、面倒だな……そう思っていた時、「七瀬」と呼ぶ声で我に返った。
顔を上げれば、早坂が椅子に座ったまま、私をじっと見上げている。
「あっ、ごめんごめん。えーっと、何の話してたんだっけ? あ、思い出した。マスター更新は私がやっとくね!」
「………」
「早坂ー、聞いてる?」
「……あの男から連絡きたのか?」
「………」
……早坂はこういうとこ鋭いんだよなあ。