#02
「は? 不倫してたってこと?」
「違う。いや違わないけど。私はあの人が結婚してる事自体知らなかったの!」
ノンアルコールのビール缶を、ガンッ! とテーブルに叩きつけるように置く。私は悪くないぞ的な態度を取ったところで「知らなかっただろうが何だろうが、不倫は不倫だろ」と言われれば、確かにその通りなので何も言えない。
早坂の言い分はいつだって正しい。
「まさか、ずっと付き合ってた男が妻子持ちだなんて思わないじゃん」
「4年も付き合ってたんだろ? 会える日も時間も限られてたなら、少しは疑問に思わないか?」
「仕事で忙しい人だって知ってたから。なかなか会えなくても、多忙なんだろうな、くらいにしか思ってなかった」
「そこは疑えよ。男なら仕事も女も両立させるべきだろ」
「わお、さすがモテる男は言うことが違うね!」
「茶化すな」
褒めたつもりなんだけど、モテる発言に早坂は何の反応も示さなかった。呆れ顔でビールを口にして、私の愚痴に耳を傾けている。
半年前まで付き合っていた人。
青木忍さん。
一人飲みバーのカウンター席で、酒を嗜んでいた最中に話しかけられたのがキッカケ。
私よりも3つ年上で、大手企業の営業社員。
家柄も大変素晴らしく、年収も私なんかとは比べ物にならない程に桁違いだ。
そんな青木さんだけど、常に丁重な態度を崩さない。誰の前でも敬語で話し、感情的になる事もない。彼の紳士っぷりは私から見ても好感度が高かったし、何より学歴や収入・羽振りの良さを鼻にかけない優しい人柄に惹かれたんだ。
バーで何度か顔を合わせる度に話す機会が増え、定期的に連絡を取り合う仲になった。仕事帰りに彼が部屋に寄る事もあったし、一緒に宅飲みする事もあった。そのままバーへと一緒に出掛けたこともある。
休日にデートなんて、4年の交際の中で指折り数える程度しかなかったけれど、それでも私は彼との付き合いに、確かな幸せを感じていた。
忙しい身でありながら、僅かな合間を削ってまで会いに来てくれる彼に感謝していたし、将来結婚するならこの人だろうなって、信じて疑わなかった。
実は既に結婚していて、現在妻と子と一緒に暮らしてますって自己申告されるまではな。
「天国から地獄だな」
「ほんとにね」
「で?」
「で? って、何が?」
「それで終わりじゃないだろ。今もソイツで悩んでるってことは、結局その男を忘れられていないって事だろ?」
「はいブッブー。ハズレ」
「は?」
「妻子いますって言われた時点で、はあ? ってなるじゃん。もうね、スウー……って気持ちが冷えたよ。私の純情返せよクズ野郎って思ったし」
すごいよね人間って。
あんなに大好きで燃え上がるような恋だったのに、熱が醒めるのは一瞬だったもん。
「もう半年も経ってるし、あの人に何の情も抱いてない。未練はないよ」
「……そうか」
「でもさー、聞いて? 何度も別れようって言ってんのに、相手が納得してくれないんだよ。不倫とかマジ勘弁してくれって感じだし、青木さんの家庭をブッ壊すつもりもないし、だから私が身を引く覚悟を決めたのにさ、ぜんっぜん人の話聞いてくれないの。『僕は別れましぇんっ!』の一点ばり」
「……おい言い方」
「しかもだよ~??? 『君と別れるくらいなら妻と離婚する』とか言い出したんだよあの人。いやもう、絶対嘘やん? 不倫ごっこをズルズル長引かせたい男の常套句じゃん? あーやだやだ気持ち悪い。もう顔も見たくないのに逐一連絡してくるし、最近ほんとしつこすぎて無理」
「……やばくね、ソイツ」
「やばい。テラやばい。ストーカーに発展しそうな勢い。盗聴器仕掛けられてるかも。アハッ」
「笑い事じゃねーよ」
真面目な早坂マネに軽い冗談は通じなかった。話の内容がそこそこハードだし、空気が重くならないように気遣ったつもりなんだけど空振りした。どうやら裏目に出たらしい。
とはいえ、早坂に不機嫌な様子はなかった。
私の性格を熟知しているこの男は、この必死な配慮を無下にするような奴じゃない。こんな話を聞かされた早坂自身も言いたいことはあるんだろうけど、頭ごなしに説教したり、反論したりはしなかった。
途中で口を挟むことも少なく、私の愚痴をただ静かに聞いてくれた。そのお陰で私はストレスを感じることなく、溜まっていた鬱憤を晴らすことができた。早坂氏の神対応に感服するしかない。
自分でもわかってるんだ。無知であれば何でも許される訳じゃないことくらい。
青木さんが会いに来てくれるのは、基本的に平日の深夜帯。土日や祝日に会うことはほとんど無かった。思えば自宅に呼ばれたことすらない。
4年も交際しておきながら、その淡白すぎる付き合い方は誰がどう考えてもおかしいのに、そこに疑問すら抱かず能天気に過ごしていた私は間抜け以外の何者でもない。
彼の中では、基本は家族優先。
私はただの暇潰し程度でしかなかった。
言わなければバレないと思われていた時点で、ただの都合のいい女でしかなかったんだ。
でも、これはあくまでも私視点の話。奥さんの立場からすれば、旦那さんのしたことは立派な浮気であって、私達のしたことは不倫行為、その事実は変わらない。
言われなかったから知らなかった、で済まされる問題じゃなくて、早坂の言う通り、不倫は不倫でしかないんだ。
もし私が奥さんの立場だったら相手の女を責めるだろうし、旦那は間違いなく半殺しにする。
不倫は美徳でも何でもない、誰かを傷つけるだけで誰も幸せになんかなれない。
だから妻子がいるって知った時点で、すぐに別れを告げたんだから。
その決断に至るまでの思いは、早坂にもちゃんと伝わっているようだった。だから何も言わずにいてくれたんだと思う。
相手の気持ちに寄り添えるのは早坂の最大の長所で、私が最も尊敬してる部分だ。
話を聞き終えた後、空になった缶ビールをゴミ袋にまとめて、マチ部分をきゅっと結ぶ早坂の姿がある。それを、黙って眺めていた。
「早坂、もう飲まないの?」
「七瀬に付き合ってたら帰る前に酔うわ」
「いいじゃん、酔っても。泊まってけば?」
「……は、」
一瞬の沈黙が落ちる。
身を強張らせたまま、早坂は私の顔を凝視していた。
信じられないものを見ているようなその顔つきに、疑問符が浮かぶ。
「そんなに驚くこと?」
「いや本気で言ってんの?」
「なにが?」
「泊まってけ、とか」
「うん」
「……危機感とかねえのかよ」
わざとらしく溜め息をつく。早坂が何を言いたいのか、それくらいはわかるけど。
「危機感って(笑)。 早坂は私に何かする気なの?」
「……しないけど」
「でしょー?」
どう頭を捻っても逆立ちしても、早坂と私がどうこうなる展開なんて想像つかない。既に根強い仲間意識と友人関係を築いている相手に、どうやって危機感を抱けというのか、むしろ私が教えてほしいくらいだ。
大体、どうにかなっているような間柄なら、この4年の間に、既にどうにかなってるだろうし。
早坂の発言を一笑して、残り僅かなビールを一気に飲み干した。ノンアルだから少々物足りないけれど、心配性な彼からアルコール摂取を禁止されてしまったので仕方ない。
「ビールのみたい」
「ダメ。つーか風呂沸いたんじゃねえの? 入ってくれば?」
「さては私が風呂入ってる間に帰るつもりだな貴様」
「……話聞いたら帰るって言っただろ」
「帰ったらわたしビール飲んじゃう」
「………、わかったよ」
しつこさに定評のある私が勝利をもぎ取りました。先に折れてくれたのは早坂の方だった。
それから私達は順番に入浴して、深夜の1時を回った頃に就寝した。
床かソファーで寝ると早坂が言い出したから、一緒のベッドで寝るのはいかがでしょうかと冗談混じりに提案してみた。めっちゃ嫌そうな顔された。そこまで嫌がることないのにね。
まあ、一緒のベッドはさすがに私も抵抗があるけど。
結果的にアイツはソファーに横になった訳だけど、私はひとりベッドの中で、この流れにモヤモヤしていた。
客人を無理やり引き留めておいて、寝づらいソファーに寝かせた挙げ句、自分はベッドの中でぬくぬくしている事に罪悪感があったから。
……まあ、ものの数分で熟睡したけど。
私、もし早坂と一緒のベッドで寝ても、絶対に何も起こらない自信がある。
そう断言できるほど私は早坂を信頼していたし、築き上げてきた友情も固いと思っていた。