#01
──水森さやかと出会ったのは、麗らかな春の午後の事だった。
契約を結んだ取引先に赴き、打ち合わせをすること数時間。相手のご機嫌取りにもほとほと疲れ果て、やっと解放された頃には15時を回っていた。
昼前には自社へ戻る筈の予定が狂ってしまい、先方にバレないように溜め息を漏らす。午後に急ぎの用件がなかった事だけが幸いだった、今はそう思うことにした。
「お疲れ様でした。お気をつけて」
「ありがとうございます」
受付の女性社員と会釈を交わし、エントランスを出る。
緊張が解け、肩の荷が軽くなると同時に感じたのは空腹感。
摂食中枢が刺激され、胃をぎゅっと掴まれるような痛覚が襲う。
この際、昼食と夕食を同時に取ってしまおうかと、近くのコンビニでおにぎりとパンと、冷えたお茶のペットボトルを購入した。
正直この量で腹が満たされるとは思わないが、この後も当然仕事は重なっていて、つまり満腹状態だけは避けなければならない。
眠気が襲ってくるからだ。
若干空腹を感じる程度が、仕事の効率的にはちょうどいい。
「……仕事、か」
小さな呟きは、澄んだ空気に溶けていく。
『1時間で、100万円の絵画を売る営業に挑戦してみませんか』
そんなキャッチセールスに惹かれて入社した。
釣られた、という表現の方が正しいかもしれない。
今思えば、胡散臭さ満載だ。
アジュール株式会社──
日本では珍しい『アート』を営業ビジネスとしている。
絵画の提案営業だけではなく、展示会やイベント開催・販売会など、アートマーケティングやプロモーションも手掛けている。
日本、そして世界各国のアーティストの発掘、プロデュースまで、幅広く関連事業を展開させている会社だ。
創業30年、社員数250名。
そのうちの1人が俺、桐谷《きりたに》郁也《いくや》だ。
まだ、駆け出しではあるが。
それでも基本的な営業や商品知識、そしてマナーは、度重なる研修を経て習得した。
先輩方から教わった営業スキルも、見よう見まねで身につけた。
右折屈折しながらも自己流の営業スタイルを確立し、1人で売ることも出来るようになった。
入社して2年、成績は決して悪くない。
なのに──充実感がまるで無い。
仕事に楽しさを見出だせない。
やりがいを感じない。
収入や業務内容に不満はないし、人間関係も上手くいっている。成績もそこそこ順調だというのに、心はずっと空虚なままだ。
仕事が楽しくない、と。
そう思い始めたのは、いつの頃だったか。
とは言え、給料が発生している以上はビジネスだ。職務放棄する訳にもいかない。
効率よく仕事をこなし、成績を上げて会社の利益に貢献し、給料を得る。楽しいが楽しくなかろうが、代わり映えの無い毎日だろうが、社会人としての責務は全うしなければならない。そこに自分の感情は関係ない。
働かなければ、収入がなくなる。
生活が出来なくなる。
今しがた購入した物も、働いて得た給料があってこその食料品だ。
働かざる者食うべからず──
新約聖書の一節からこの表現が知れ渡ったらしいが、古くから社会主義の戒律は厳存していたという事だろう。
「……さすがに腹へった」
大通りへと車を走らせて数分後。
急激な空腹感に見舞われた。
三大欲求のひとつを口にしてしまえば、仕事モードに入っていた思考は遮断され、腹を満たしたい欲求に支配される。
多少の空腹なら耐えられるが、昼抜きはさすがに胃が堪えたようだ。
空腹状態が続けば、血糖値が下がる。
それはつまり、集中力や思考力の低下を招きかねない。脳が栄養不足になるからだ。
会社へ戻る前に、何かしら胃に入れた方がいいかもしれない。
「……公園に寄るか」
そう思い至った俺は、車が行き交う通りを抜けて進路を変えた。
高台へと向かえば、なだらかな傾斜地に一戸建ての住宅地が見えてくる。広い敷地に見事な植栽が並ぶ、落ち着いた場所だ。地盤が良い土地の証拠だろう。
陽は徐々に傾きを見せ始めている。
黒いアスファルトが紅に染まっていき、夕刻の闇が、閑静な住宅地を包み込もうとしていた。
車用時計は16時を表示している。
定時まで、もう1時間しか残されていない。
残業になるかもしれない。
暗くなる前に、会社に戻らないと。
そう思い直した、その時──
「……?」
視界の端に映った光景。
道端に女の子が倒れていた。
……いや、倒れているというよりは、蹲っているという言い方の方が正しいのか。外壁に片手をついて、彼女はその場に屈んでいた。
髪が顔を覆い隠して、車内からでは表情はわからない。
けれど、どうにも尋常ではない様子に見える。貧血だろうか。
近くに車を停めた後、運転席から降りる。
周囲を見渡しても、俺以外は誰もいない。
一向に動く気配の無い彼女に駆け寄り、肩に軽く触れてみる。
「あの、大丈夫ですか」
「………」
応答がない。
もう一度肩を叩いてみるも、彼女は振り向くどころか微動だにしない。
けど微かに、「うぅ……」と苦しげな呻き声だけは、かろうじて耳に届いた。
貧血かと思ったが、もっと深刻な状況なのかもしれない。表情はわからずとも、具合が良くなさそうなのは見ただけでわかる。
体調が悪ければ病院まで乗せていく事も出来るが、喋る事もままならない状態なら、素人判断はせずに助けを呼んだ方がいいだろう。
すぐに救急車を呼ぶので、スマホをタップしながらそう伝えようと口を開きかけた、
その時。
「……おなかが……すきました……」
「……へ」
スマホを操作していた指が止まる。
屈んだまま空腹を訴えた女の子と、その傍らで絶句している俺。
その直後、
──ぐおおおおおぉぉ、と。
とても腹の音とは思えない、まるで怪獣の咆哮のような凄まじい腹鳴が、夕暮れ時の静かな住宅地にこだました。