#07



「締め忘れたっけ……?」

 今朝のことを思い出す。早坂に起こされて、寝惚け眼をこすりながらアイツの背中を見送った。その後はきちんと鍵を締めたところは覚えてる。
 その後は朝風呂に浸かって、テレビをつけて、朝食を作って、食べて、軽くメイクをして……部屋を出るまでの一連の行動を、ひとつひとつ思い起こす。

 そして部屋を出る時に、鍵を締めた。確認もした。
 やっぱり、締め忘れてなんかいない。
 なのに扉は開いている。

「………」

 不気味な予感に動きが止まる。
 部屋の明かりは点いていないのに、部屋の鍵が開いているという状況に、心臓が馬鹿みたいに暴れだす。変な汗まで出てきた。

 最初に頭に浮かんだのは、空き巣の可能性。
 私の知らない誰かが、私がいない間に部屋に侵入したかもしれない可能性に背筋が凍る。
 マンションの空き巣被害は結構耳にする話だけど、どこか他人事のように考えていた。だから防犯対策なんて何もしていない。せいぜいドアと窓の鍵を締める程度だけだった。
 空き巣以外に考えられるのは、合鍵を渡している親の存在。でも私の両親であれば、部屋に来る事前に連絡をくれる筈だ。勿論、そんな連絡は受けていない。

 ……他に可能性を挙げるとすれば、以前、合鍵を渡していた人の存在が浮かび上がる。青木さんだ。

 彼に渡していた合鍵は返却してもらった筈だけど、彼が私に内緒で予備を作っていた、という可能性も捨てきれない。
 そんなことをするような人には見えないけれど、絶対にないとは言い切れない。
 でも、本当に私が締め忘れていただけ、かもしれない。むしろそっちであってほしい。

 ゆっくりとドアノブを捻る。
 恐る恐る扉を開いても、室内はシンと静まり返っている。それが余計に恐怖を募らせた。
 無機質な開閉の音でさえ、今は恐怖の対象でしかない。

「……だ、だ、誰かいます?」

 我ながらアホな問い掛けだとは思う。
 でも声に出さないと、恐怖に押し潰されそうで心臓が痛い。肝試しで馬鹿みたいに笑って、歌いながら怖さを振り切ろうとする人の、あの心理状態と同じだ。
 部屋の中が荒らされていたらどうしよう、もし部屋の中に誰かが潜んでいたらどうしよう。
 最悪の事態に、尋常じゃない程の不安と恐怖が全身に纏わりつく。

 弱々しい私の呼び掛けに、応じる声は勿論ない。
 でも、感じた―――微かに動く、人の気配。
 間違いなく、この部屋の中に誰かがいる。

 この場から逃げて、大家さんに連絡を取ろうか───そう考えた時、駐車場の街灯の光が玄関を照らした。

 煌々と射す光の先に、自分のものじゃない男性用の靴がある。それが見覚えのある人の靴だと気づいた瞬間、体中の力が抜けた。
 ここで安堵を覚えたのは間違いかもしれないけれど、部屋に潜んでいる人物が、私の知らない誰かよりは全然マシだ。

 ……にしても、電気くらいつけりゃいいのに。

「どうして部屋に居るんですか、青木さん」

 誰かさえわかれば怖いものはない。ズカズカと部屋に入り、すぐに照明をつける。
 私のベッドに腰掛けながらスマホをいじっていた人物は、その綺麗な顔を私に向けた。

 数ヵ月前までは、彼の姿を見ただけで気持ちが舞い上がっていたのに。今は何も浮上しない。

「おかえり、遥。お仕事お疲れさま」
「電気くらいつけてくださいよ」
「怖かった?」
「当たり前です」
「ごめんね。俺がいるってバレたら部屋に来てくれないと思って、わざと消してたんだ」
「ていうか、なんで部屋に入れたんですか? 合鍵は返してもらいましたよね。まさか予備を作ってたんですか?」

 私の問いかけに、青木さんはゆったりと微笑むだけで返事をしない。その沈黙が肯定の証のように感じて、彼の態度に嫌気がさす。
 この人はいつもそうだ。自分にとって都合の悪いことは、沈黙でやり過ごそうとしたり誤魔化そうとする。
 ちゃんと向かい合ってくれないから、いつまで経っても別れ話に決着がつかないままだ。

「……いつから此処にいたんですか?」

 仕事が終わったら連絡してほしい、そう伝えていたのに。私の伝言が無駄になってしまった。
 この人が私に内緒で、たとえ数分でも、私の部屋で1人くつろいでいたという事実に寒気がする。気味が悪い。

「ついさっきだよ。遥に会えると思ったら嬉しくて、急いで帰ってきたんだ」
「……急いで帰ってくる場所が違うでしょ。奥さんとお子さん、青木さんの帰りを待ってるんじゃないですか? 早く帰ってあげたらどうです?」
「……もう名前ですら呼んでくれないんだね」
「貴方も名前で呼ばないでください。私達はもう、ただの他人同士なんですから」
「遥、俺は」
「七瀬です」
「………」

 取りつく島もない私の主張に、青木さんは小さくため息をつく。

「……俺、疲れたよ」
「私だって疲れてますよ」
「抱かせてよ」
「……は?」
「だから、俺疲れてるの。遥で癒されたいんだ。恋人なんだからいいでしょ?」
「ちょっと本気で何言ってるかわかんない」
「変なことは言ってないと思うけど」
「人の話、ちゃんと聞いてますか? 何度も別れてほしいって、私は言いましたよね。その時点で、もう恋人同士なんて言えないですよ。奥さんとお子さん、どうなさるつもりなんですか?」
「妻とはいずれ離婚する。俺は遥と一緒になりたいんだ」
「………」

 たまに、この人は心臓に毛が生えてるんじゃないかと疑う時がある。自分のしたことを棚に上げて『一緒になりたい』なんて、よくもまあ平然と言えたものだと憤慨する。

 この人はさっき、「部屋にいるとバレたら、私が来てくれないと思った」、自分でそう言っていた。
 私が別れたがっていることを、青木さんはちゃんと頭で理解してる。わかっていながら、こんな台詞を吐く意図が読めない。
 甘い言葉で誘えば、また私が戻ってきてくれると勘違いしているのか。それはそれで腹が立つ。

 たとえ彼が奥さんと別れたとしても、それで私がヨリを戻したいなんて思うはずがない。そんなに軽い女じゃない。
 私が一番腹を立てているのは、4年間、ずっと裏切られ続けていたことなんだから。

 不倫は悪いことだってわかっていながら、私にも奥さんにも平気で嘘をついて罪悪感すら抱いていない、そんな男と一生、一緒にいたいだなんて思えない。
 この人とは金輪際会いたくない。
 その思いは絶対に揺るがない。

「青木さん、本当にこれが最後です。私と別れてください。あなたには、一生添い遂げると誓った相手がいるんです。それは私ではありません。奥さんとお子さんのこと、ちゃんと考えてあげてください。こんなところで他の女にうつつを抜かしてる場合じゃないでしょ?」

 きっぱりと、最後の別れを告げたつもりだった。
 なのに彼の表情は変わらない。穏やかな顔で私を見つめていて、傍目から見れば、とても別れ話をしている男女の雰囲気には見えないだろう。
 彼の瞳に浮かぶ感情が何なのか、私には読み取ることもできなかった。

「……そんなに俺と離れたいの」
「なんなら今後一切会いたくないです」
「……そう」

 静かに瞳を閉じて、青木さんは小さく息を吐いた。
 やっと諦めてくれた、そう安堵した私の身体は、次の瞬間、彼の腕に強く引き寄せられて抱きすくめられた。

 驚きで声が出ない。
 瞬きをすることも忘れて、私を腕の中に閉じ込めている彼を呆然と見上げた。

「……ちょ、何っ、離して!」
「ああ、遥の匂いだ」

 陶酔したような声が落ちる。
 私の髪を指に絡ませて、頭に顔を埋めてくる彼にぞっとした。
 身の毛がよだつほどの嫌悪感に襲われて、必死で腕を突っ張って離れようとする。
 それでも距離が開くことはない。

「っ、いい加減にして!」

 それでも必死に抵抗を試みれば、僅かに彼の体が離れた。

「もう帰って! 2度とここに来ないで! あなたには奥さんと子供がいるでしょ!?」
「……遥はいつもそれだ。奥さんがどうとか子供が、とか。妻と子がいるから何? いたところで今までと何も変わらないよ? 俺は遥を恋人扱いするし、遥だって、今まで通り俺と会えて、ここでセックスできて嬉しいでしょ?」



 ───……なに、それ。



 彼が放った言葉の意味を悟った瞬間、思考が絶望に染まる。私の価値を軽度しているその発言に、腸が煮え繰り返る程の憤りを感じた。

 この人が抱いている恋人の認識と、私が抱いている恋人の認識が、全く違う。
 向かい合って話し合おうなんて最初から無理だったんだ。見ている方向が全然違うんだから。

「……はっ、」

 乾いた笑いが声に出た。
 思い違いも甚だしい自分の馬鹿さ加減に吐き気がする。

「待って、マジうける、あはは」
「……遥?」
「恋人扱いって、そんな事してくれるんですか私なんかの為に。ははっ……、ふ……ッ」

 嗚咽まで漏れる。
 悔しくて悔しくて、涙が滲んだ。



 ねえ、早坂。聞いた?
 この人、奥さんがいても私を恋人扱いしてくれるらしいよ。
 笑っちゃうよね。
 恋人『扱い』って。

 私は、恋人ですらなかったよ。



 私達の過ごした4年間は、この人にとって、一体なんだったんだろう。
 青木さんから連絡が来る度に嬉しくなって、舞い上がっていた私って何だったんだろう。
 敬語が少しずつタメ語に変わって、名前で呼ばれるようになって、少しずつ距離が近づいていくのが嬉しかった。
 部屋に寄るね、ってメッセージが届く度にソワソワして、仕事で疲れているだろう彼の為に、夜食を作ってみたりした。
 急に会えなくなる日もあったけど、そんな時はいつも、次の日の早朝に顔を見せに来てくれた。
 そんな彼の気遣いが嬉しくて幸せを感じていたのに、私のご機嫌取りをしていただけに過ぎなかったんだ。

 この人にとって私は、性欲や家庭のストレスを和らげる為だけの存在価値しかなくて、しかも、私自身もそう扱われる事に喜んでいると思ってる。
 もしかしたら家庭のことも、彼が自身の評価を上げる為だけに作っただけのものかもしれない。そこに愛情の有無なんて関係ない。
 仕事熱心で、家族を愛する夫という印象は、誰から見ても好印象だ。
 その裏で、不誠実な関係を続けていた私の存在感なんて、ゴミ屑程度のものでしかない。



 彼を恋人だと思っていたのは、私だけ。
 ちょっと恋人扱いすれば、しっぽを振って喜んでくれる、まるで彼のペット扱いだった私。

 最悪だ。惨めすぎる、こんなの。
 少しでも彼との将来を夢描いていた過去の自分を呪った。
 同時にこの人に対する憎しみも湧く。

「──2度と来んなクズ」

 怒りに任せて、そう口走ってしまった。

 その直後、


 ───パンッ!


 顔に響いた破裂音とともに、体が真横に吹っ飛んだ。足がもつれ、テーブルの脚につまづいてしまった私は、派手な音を立ててその場に崩れ落ちてしまう。
 ガツッ、とこめかみに嫌な衝撃が伝わって、テーブルの角に頭をぶつけたと悟った瞬間、身に起こった事態を把握した。

 ぶたれた。
 わたし、今、頬をぶたれた。
 青木さんに殴られた。

 そう認識してから、時間差で痛みが襲ってきた。
 平手打ちされた左頬と、テーブルにぶつけた右足とこめかみに激痛が走り、顔をしかめる。

「……あーあ、」

 頭上から、落胆したような声が降り注ぐ。
 ゆっくり顔を上げた私の瞳に映ったのは、こんな時でも穏やかに微笑んで私を見下ろす、青木さんの姿。

「せっかく大事にしてたんだけどなあ」

 けれどその声は、背筋が冷える程に温度がなかった。


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募る想いは果てしなく|本編7話
転載先:ムーンライトノベルズ
柚木結衣 ( HP / 拍手 )



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