#08



 全身から力が抜けて、ふらりと重心が傾く。手から缶が滑り落ちて、派手な音を立てて床の上を転がっていく。足元から崩れ落ちそうになって、慌ててテーブルに手をついた。
 そのお陰で倒れることはなかったけれど、身体の異変はずっと続いている。神経と血管の集中している場所が、じんわりと熱を持ち始めていた。
 その熱は瞬く間に全身へと広がっていく。頬も耳も指先も、どこもかしこも全てが熱い。自分の身に何が起こっているのかもわからず視線を彷徨わせる私に、ゆっくりと近づいてくる気配。コツ、と靴を鳴らして歩み寄ってきた竹井の手が、今度は私の頬に触れた。
 ゆったりとした動きで髪を掬い、顔に掛かる横髪を耳にかけられる。その指先が耳朶に触れた時、緩やかな刺激が全身を襲った。背筋からぞくぞくと這い上がる感覚は、私の中に眠っている官能を呼び覚ましていく。突然の豹変に理解が追いつかない私の頭上から、静かな声が落ちた。

「……すげえな。即効性のあるものだっていうのは聞いてたけど、こんなにすぐ効くとは思わなかった」

 その独り言のような呟きに血の気が引いた。
 視界の端に映るのは、私が落とした缶コーヒー。
 床一面に濡れているコーヒーの水溜りが、じわじわとその範囲を広げていた。

「……何したの……っ」

 缶コーヒーを手渡された時、プルタブは既に開けられていた。その事に違和感を覚えたものの、まさか好きな人に薬を盛られるなんて思わない。

「心配すんなよ、死ぬわけじゃない……っ、」
「……た、竹井……?」

 身体に異変が起きていたのは私だけじゃなかった。はあ、と深く息をつく竹井は、何かを耐えているかのような険しい表情を浮かべている。浅い呼吸を何度も繰り返し、頬は上気し、潤むような熱を孕んだ瞳が、私をじっと見下ろしている。その鋭い視線に射抜かれた瞬間、ドクンッと心臓が嫌な音を立てた。
 危険を察知した鼓動が乱れ始める。本能で悟った――逃げたほうがいい。
 けれど、私の意思に反して身体は思うように動かなかった。咄嗟に後ずさりして扉に向かおうとしても、片脚が滑稽にもつれ、ふらついてしまう。直後に二の腕を掴まれて、後ろから抱きすくめられて息が止まる。振り払うことも出来ず、私の身体はあっけなく、竹井の両腕に囚われた。

「やっ……!」

 力強い腕の中、必死に抵抗しようと身を捩る。その瞬間、ふわりと香る竹井の匂い。瞬間、全身の血が沸騰するかのような熱い昂ぶりを覚えた。
 身体中が熱くて、何に触れても刺激が走る。聴覚も嗅覚も、全ての感覚が研ぎ澄まされたように過敏になっているのがわかる。

「たっ……竹井、これ何っ、こわい……ッ」
「……平気だって。ただの媚薬」
「び、やく? ……んっ、」

 耳元で囁かれて肩が跳ねる。吐息混じりの掠れた声にも、身体は過剰に反応してしまう。背筋を駆け巡る甘い感覚がたまらなかった。ダイレクトに下半身へと響き、きゅうっと膣が切なく締まる。
 断続的に襲う快楽に屈してしまいそう。自分でどう処理していいのかもわからない感覚から逃れたくて、肩に回された腕をぎゅっと握り返す。流されちゃだめ、そうは思っても薬の効力は絶大で、自らの意思で抗うことすら難しくなっていた。



 媚薬、が何なのかは知識として知っている。
 けれど、実物を目にしたことなんてなければ使ったこともない。どこで手に入れるのかも知らない。わかるのは、こうなった原因を作ったのは竹井だということだけだ。
 私の承諾もなく媚薬を使うなんて、普通に考えてありえないと思うけれど、半狂乱に陥っている私には、そこまで竹井を責め立てる余裕なんて持てなかった。競り上がる身体の疼きを何とかしたくて、縋るように竹井に強くしがみつく。

「身体変だよ……やだぁ……」
「……奥の部屋に行こう。ここじゃ嫌だろ」

 そう言って竹井が指し示したのは、小会議室となっている隣の部屋。使用する機会はあまり無く、不要になった備品を放置しているだけの物置部屋と化している場所だ。常にブラインドが下ろされているせいで日差しも街灯も届かない薄暗い部屋に、私は半強制的に連れ込まれた。

 竹井の手が勢いよく扉を閉める。壁に身体を押し付けられ、我慢できないとばかりに噛みつくようなキスが落ちた。両頬を竹井の手が挟み込んでいるお陰で逃げることも叶わない。貪るように口付けられ、唇を割って侵入してきた舌が、口内を縦横無尽に這い回る。

「んっ、ぅんー……ふ、ぅんッ……!」

 質素な部屋の中、艶かしいリップ音と乱れた吐息だけが響き渡る。息苦しいキスすらも、竹井となら気持ちがいい。最後に竹井とキスをしたのはあの日、コイツが私の部屋に侵入してた10日前。ベッドに押し倒されて、荒々しいキスを交わしたあの日の事を忘れたことなんて1日もない。唇の感触も舌の熱さも、記憶以上に身体がよく覚えている。あの夜の続きを彷彿させるような濃厚な口付けに胸が高鳴り、興奮が止まらなかった。

「あっ、や……ふ、」

 深い口付けに頭がぼうっと蕩けていく。もっと交わりたくて、竹井の首に両腕を回してキスをせがんだ。互いの唇の感触を思う存分堪能して、やっと離れた私達はすっかり肩で呼吸をしている状態で笑えてしまう。まるで野生動物だ。

 竹井に腕を引っ張られ、背後に置いてある古ぼけたソファーに身体を放り投げられた。乱暴な扱いに驚いたのは一瞬のことで、すぐに竹井が覆い被さってきて再び唇を塞がれる。
 ギシ、と不協和音を奏でるソファーは、今や使われなくなった備品のひとつ。1人掛けソファーにしてはサイズが大きめに作られているお陰で、2人分の体重が乗っても窮屈さを感じない。

「ん……キスきもちい……もっとして」
「……キスだけじゃ足りないだろ。もっと満足させてやるから」
「ひ、ぁんッ……!」

 耳元で囁かれただけなのに、ビクビクと身体が強烈に震えた。まるで全身が性感帯になってしまったかのように身体が大きく仰け反る。もっと、もっと刺激が欲しくて勝手に腰が揺れてしまう。羞恥心なんてものは既にない。快楽という大きなうねりに理性はあっけなく飲み込まれて、淫らな思考だけが脳内を支配していた。

 竹井の言う通りだ。キスだけじゃ足りないの。
 足りない。全然物足りない。
 もっと激しいキスがしたい。たくさん触れて欲しい。触れたい。衣服も全部剥がされて私を全部暴いてほしい。誰も知らない竹井の一番気持ちいいところを知りたい。疼いて仕方ない奥を、ぐちゃぐちゃに掻き回されてイキたい。イキたくてしょうがない。イキたい……!

「っは、ぁ……」

 興奮が止まなくて口内に唾液が溜まる。竹井相手にいやらしい感情を抱いてしまうのは、きっと媚薬の効力だけじゃない。竹井のことが好きな想いが、沸き起こる性欲により拍車を掛けている。いくら薬を盛られたからといって、触れられるのは誰でもいいわけじゃない。竹井じゃないと嫌なの。

「やぁ……キスやめないで……」
「キスだけで満足?」
「……やだ……触って……ッ」
「俺に触ってほしいの?」
「んっ……」

 必死に頷く。竹井の唇が意地悪そうに歪んだ。

「じゃあ……ここで脱いで。下着姿になれよ」


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優しい明日の壊し方|本編8話
転載先:ムーンライトノベルズ
柚木結衣 ( HP / 拍手 )



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