#02



「……え」

 絞り出すように発した声は弱々しくて、背中にじわりと汗が滲む。困惑している私とは逆に、竹井は取り乱した様子もなく、涼しい顔で私を見下ろしていた。
 けれど私を映し出す瞳はいつになく、強い意思を纏っている。その鋭い視線に身の危険を察して、抵抗を試みたけれど動くことはできなかった。所詮力の差なんて歴然だ、抵抗しても疲れるだけだと悟った私は肩の力を抜いた。
 それでも警戒心は解かない。一瞬でも気を許してしまったら、これまでずっと保ってきた竹井との距離感が、一気に壊れてしまう予感がする。
 そしてこういう勘は大抵、外れないものだ。

「……急に何言い出すのよ」
「また付き合いたいって言ってる」
「冗談でしょ?」
「冗談じゃねぇよ。本気」
「そんなの信じられない」
「嘘つけよ。気づいてたくせに」

 核心をついた言葉に、一瞬言葉が詰まる。
 必死に平常心を保とうとした努力は報われなかった。

「……何が?」
「気づいてただろ、俺の態度に」
「私は何も、」
「やり直そう、北川」
「……アンタ彼女いるでしょ」
「いつの話だよ。もうとっくに別れてる」
「……また別れたの?」

 思わず眉をひそめてしまう。竹井が女の子を振るのはこれで何度目だろう。いつも女を取っ替え引っ替えしてるから悪い噂も立ってるし、そのせいでトラブルになった事だってあるのに、竹井はいつまでこんな事を続けるつもりなんだろう。
 周りの人間は何も言わないんだろうか。
 竹井も心が痛まないんだろうか。
 どれだけ私が思い悩んだところで、彼がこうなる原因を作ったのは私なんだから、竹井を責める資格なんてないけれど。



 竹井と別れたあの日から、私の何かが狂った。
 竹井が荒れるようになってから、私の心も荒れだした。
 私はよく知ってる。竹井は元々、女を適当に扱うような酷い人間じゃない。何十年も近くで見てきたんだ、コイツがどういう奴かなんて熟知してる。昔から女にモテてはいたけれど、だからって変に偉ぶったりしないし、モテ自慢もしない。ましてや女と不誠実な付き合いなんて、絶対にしない奴だった。男女関係なく、本当に心許せる相手としか仲良くしないのが竹井だ。
 そんな奴だったのに、私と別れてからおかしくなった。急に女癖が酷くなった。だから思ったんだ、そんな風に荒れ始めたのは私と別れたことが原因かもしれないって。

『アンタはなんか違うんだよね』

 たった一言。別れ際、私は竹井にそう言った。
 今思い出しても、あんな酷い言葉を投げつけた自分を殴りたくなる。たとえ軽い交際だったとしても、そんな投げ槍な言葉を口にすべきじゃなかった。私は一番最低なやり方で、竹井のプライドを傷つけてしまったんだ。そんなつもりじゃなかった、傷つけるつもりじゃなかったなんて、相手からすれば言い訳にすぎない。
 あの日、若さゆえのノリと勢いだけで頷いてしまったことを、私はずっと後悔してる。別れて以来、竹井の顔色を窺いながら毎日を過ごしてきた。付き合っていた期間のことは一切話題に触れられない、触れちゃいけない。あんな日もあったよね、なんて思い出話もできないし笑い話にもできない。気まずくなるし、竹井があの頃の話を避けたがっているのが目に見えてわかるから。避けたいということは、竹井も私と付き合ってしまったことを後悔してるんだ。無かったことにしたいって、そう思ってるんだろう。
 そう思わせてしまったのは、紛れもなく私。
 だから何も言えない。
 だから私はずっと、どうして竹井があんな風に荒れてしまったのかは知らないままだ。

「北川」

 布の擦れる音で我に返る。無意識のうちに目を逸らしていたらしい。はっと顔を上げれば、真っ直ぐな瞳とぶつかった。
 硬直している私に、竹井がはあ、とため息をつく。面倒くさそうに頭を掻いて、重い口を開いた。

「……北川ってさ」
「……なに」
「すぐ逃げるよな」
「……」
「そうやって俺の気持ちも自分の気持ちも誤魔化して、色んなものから逃げようとしてるのがすげえ目についてイラつく」
「……っ」

 ショックで声が出なかった。
 一番触れてほしくなかった胸の内を容赦なく暴かれて、身体中の熱がすうっと冷えていく。



 ───"逃げてる"

 そうだよ。私は逃げてる。
 もうずっと逃げ続けてる。
 竹井のことを男として見れない、好きじゃないって言いながら彼の隣をキープしてる、糞ダルい女だ。

 交際していた頃の話題に触れないのも、女癖が酷くなった竹井に対して何も言わないのも、竹井に嫌われるかもしれない事を今更したくないから。彼に酷いことをしてしまった罪悪感は確かにあった、だから私は彼を責める権利はないし何も言わないの、って建前を晒して、本音はただ嫌われるのが怖かっただけだ。
 そんな風に、竹井を特別に意識し始めたのはいつ頃だっただろう。

 竹井とは中学時代からの腐れ縁だけど、友達と言えるような間柄でもなかった。ただ同じクラスだったから、席が近かったから、委員会が一緒だったから、趣味が同じだったから、だからよく話していただけ。それだけだった。
 休日に会ったりもしないし、互いの家に行ったこともない。連絡を取り合ったこともない。ただの同級生以上、友達未満の微妙な存在だった。
 突然恋人同士になっても、進展も後退もしない私達は相変わらず微妙な関係のままで、竹井を男として見ることもできなくて。だから振った。それから竹井が荒れ始めて、初めて自分がしでかした事の重大さに気が付いた。私のせいで腐っていく竹井に胸が痛んで、勝手に心配して不安になって、でも私には何も言えないから。次々に女を変えていく竹井の振る舞いが気になって気になってしょうがなかった。罪悪感から意識し始めた思いは次第に違う感情へと変化し、恋心を自覚した時は絶望した。

 だって、想いなんて打ち明けられるわけがない。
 最低な理由で自ら振っておいて、別れた後で好きになったかもしれないなんて言えるわけがない。ましてや今更付き合いたいなんて、虫が良すぎる話だ。
 だから想いは伝えないと決めていたのに、最近の竹井は変だ。意味深なことばかり口にするし、以前と雰囲気が明らかに違う。私に向けてくる瞳が、元同級生のそれじゃない。
 その視線の意味に、気づきたくなかったのに気づいてしまった。

「……ごめん」

 耐えきれず零れ落ちた謝罪の言葉に、どれほどの意味があるんだろう。傷つけてしまった過去は消えないのに。

「何に対しての謝罪だよ」
「……ごめ、」
「いや、今そういうのいらない。付き合うか付き合えないかだけ答えて」

 そんなの、無理だ。
 付き合えるはずがない。
 そう伝えなきゃいけないのに、欲張りな自分が顔を出す。竹井とやり直せるチャンスが目の前にあるのに、ここで手を伸ばさなかったら、また後悔に後悔を重ねる気がした。

 応えるべきか否か。
 2つにひとつの選択肢。
 こんなにも重圧を感じるのはいつぶりだろう。
 何も答えられないまま口を噤む私に痺れを切らしたのか、竹井は相変わらず表情を崩さないまま、何度も私に返事を促す。

「言って、北川」
「……」
「言えない?」
「……ごめん」
「じゃあ俺のことどう思ってる」
「……どう、って」
「好きか、嫌いか。答えるだけなら簡単だろ」

 ぎゅっと心臓を握り潰された気がした。簡単、な訳がないのに。「好き」の2文字が、「嫌い」の3文字がどれほど重いものなのか、もうわかってるつもりだった。
 精神的にも未熟で子供だったあの頃とは違う。社会経験を経た今、言葉の重みを理解できるようになった。自分の発言に、責任を持てる年齢になった。だから何も伝えられずにいたのに。

 やりきれない虚しさが胸を満たす。くしゃりと表情を歪ませた私に、竹井はやっぱり何の動揺も見せない。鋭い視線が私の瞳を射抜き、決断を迫る。
 互いの息が触れ合うほどの至近距離に視線を奪われて、逃げることも離れることも許されない状況に追い詰められていた。

「……あっ、」

 ふと、竹井の瞳が細く揺れる。頬に吐息が触れて、ぴくんっと身体が反応した。肌の上を竹井の唇が滑り、掠れた囁きが耳元に落ちる。

「……もう認めろよ、北川」
「……」
「認めれば、全部終わるから」

 ──たった一言。伝えてしまえば、全部終わる。
 この曖昧な関係も、この苦しい思いも。
 その言葉に救われたような気分になって、許されたような錯覚を覚えて、頑なに拒絶していた心が解かされていく。竹井の言葉はそれほどまでに、私に影響を与えていくんだ。

 冷たさを纏う表情に、再び絡んだ視線に全部、囚われる。思えばたったひとりの男に、ずっと翻弄されてきた人生だった。竹井以外の人とも交際経験はあったけど、一緒にいて楽しいと思えたのは竹井だけで、竹井を越えるような存在は現れなかった。最初から私は、この人だけだった。

「北川」
「……」
「言えよ」

 拒否権なんて、最初からなかった。

「………き」
「……」
「ごめん、すき」

 秘めた想いを紡いだ直後、唇を塞がれた。



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優しい明日の壊し方|本編2話
転載先:ムーンライトノベルズ
柚木結衣 ( HP / 拍手 )



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